134 母は複雑
給湯室で熱いコーヒーを淹れて、しんと静まり返った深夜の廊下を抜けていずみはナースステーションに戻った。
今夜の夜勤は、いずみが尊敬してやまない大先輩である永沢婦長と一緒だ。
両手にひとつずつ持った大ぶりのマグカップのうち淡い桜色の方をどうぞとテーブルに置けば、十和子が顔をあげてありがとうと微笑んだ。
「婦長、何を見てらっしゃるんですか?」
「ちょっと、家政婦さんをお願いしようと思って調べているのですけど、いずみはそういうことをやってらっしゃる方に知り合いはいないかしら?」
「家政婦さん、ですか?」
十和子がテーブルの上に広げて熱心に見ているのは、どうやら職業別の電話帳らしい。家政婦紹介所のページが広げられている。
「雪都は受験ですから、いつまでも晴音の面倒を見させる訳にはいきませんしね。夏休みが始まるまでには決めてしまいたいのですけど、こういうのは今まで縁がなかったからよくわからなくて」
「そうですねぇ、晴音ちゃんを任せるのなら変な人だったら困りますよね」
「そうでしょう?雪都はともかく、晴音はまだ五歳ですからね。出来たら信用できる方にお願いしたいのですけど、家政婦さんに知り合いなんておりませんし」
「家政婦さん……私も心当たりはありません」
お役に立てなくてすみませんと頭をさげれば、やはり十和子は柔らかく笑ってくれる。聖母の微笑みというのはこういうのを言うのではないかと、いずみはいつも思う。
いただくわねと、十和子がいずみが淹れて来たコーヒーのカップを持ち上げた。いずみも自分のカップを持ち上げ、一口味わった。
「そうか、上の息子さんは受験生でしたね。うちの妹もなんですけど、全然勉強してないです」
「妹さん、雪都と同じ高校だったわよね?」
「はい、沢浪北高校です。どうしてあんな進学校に入れたのか、すごい不思議なんですけどね」
「いずみが知らないだけで、一生懸命勉強しているのでしょう」
「どうでしょうかねぇ」
もっとも、高校を受験する時のあゆみは、確かにかなり必死で勉強していた。それは、幼馴染で今はつき合っているらしい田中清太郎と同じ高校に行くために柄にもなく頑張っていたのだということを、いずみはこっそり知っている。
「そう言えば妹が、最近よく婦長の息子さんと一緒にお昼を食べるって言ってましたよ」
「あら、そうなの?」
「一緒というか、近くにいるだけでそんなに喋らないらしいですけど。なんでも、息子さんの彼女さんと友達になったとかで」
「あらあら、そうなの!」
『息子さんの彼女さん』といずみが言った途端、嬉しそうに輝いた十和子の笑顔にいずみは少しばかり驚いてしまった。息子の彼女という存在は、母親としてはあまり歓迎したくないものらしいのに、「やっぱりおつき合いしてたのね」なんて言いながら十和子は本当に嬉しそうだ。やはり、素敵な人だと思う。十和子はいずみにとって、仕事の面だけではなくて全てにおいて憧れの人なのだ。
「彼女、すっごく可愛いらしいですよ」
「そうなのよ、とっても可愛いお嬢さんなの」
「あ、ご存じなんですか?」
「ええ、よく知ってるわよ。可愛くて優しくて、お料理上手。晴音がよく懐いていてね、もうすぐにでもお嫁に来てもらいたいくらい」
「へえ、いいなぁ」
「いずみは、結婚したいような人はいないの?」
「いませんよぉー、どなたか紹介してくださいぃー」
今年で二十五歳になるいずみは、今までに二人の人とつき合ったことがある。そのうちの一人とは将来のことを真剣に考えていたけれど、彼はかなりの資産家の息子で、ごく普通のサラリーマン家庭の娘であるいずみが遊びに行くたびにその母親に氷のような目で見られた。それに耐えられなくて、別れてしまった。今でも思い出すだけで胸が痛くなる、苦い別れだった。
「いいなぁ、婦長みたいなお姑さんて理想ですよ。私がお嫁に行きたいくらい」
「あら、駄目よ。雪都は売約済みなの」
「彼女さんに息子さんを取られるとか、全然思わないんですか?」
「思うわよ?」
「え、思うんですか?」
十和子の意外な返事に思わず大きな声が出て、十和子がくすくすと笑った。いずみは大きな声を出してしまったことが恥ずかしくなって、マグカップを持ったままで誤魔化すようにハハハと笑う。
「そりゃあそうよ、手塩にかけて育てた可愛い息子ですからね、私にだって少しくらいは焼きもちやく権利があると思いますよ」
「焼きもちですか」
「そうよ」
「だけど婦長、彼女さんのことすごく気に入ってるんですよね?」
「そうなの、本当にいい子なの!早くお嫁に来てくれないかしらねぇ」
母親は複雑ですねといずみが言うと、そうなのよーと十和子は茶目っ気たっぷりに答える。
息子にいい彼女がいることが嬉しい気持ちと、息子を取られて妬ける気持ちと、どっちが十和子の本音なのかは息子を持ったことのないいずみにはわからない。
もしかしたらどちらも本音なのかもしれないと、いずみはなんとなく思った。
本当に、なんとなくだけれど。
いずみが言う「息子さんの彼女」は、希羅梨で、十和子が言う「息子の彼女」は、美雨です。