132 すきすきだいすきこっちをむいて
咲いた、咲いたぁーと、エレクトーンの音に合わせて幼い声が大合唱しているのを尻目に、晴音は廊下を走っていた。不覚にも、一旦は担任の御手洗寛治につかまってお歌の練習に放り込まれたが、寛治が苦手なエレクトーンに四苦八苦している隙をついて抜けだして来たのだ。
晴音は教室が並んでいる廊下を瞬く間に走りぬけ、玄関前で足に急ブレーキをかけて左に曲がると職員室の前を通り過ぎ、そのまま廊下のつきあたりにある、扉が開いたままになっていた園長室に一気に飛び込んだ。
「ターケちゃん!」
机について何か書きものをしていた健の背に、後ろからぴょんと抱きつく。首に腕を回してぶら下がってからよじよじとよじ登り晴音は、健のがっしりとした肩の上にちょこんと座った。
「またフケて来たのか、晴音」
「タケちゃん、何してるのー?」
「寛治にどやされるぞ、歌の時間くらいは参加してやれ」
「ねー、お砂場で遊ぼうよー」
まったく会話がかみ合わないのは、いつものことだ。健は園長として一応、問題児の晴音に教室に戻れとは口では言うが、だけど言うだけで何もしない。晴音が自分の肩の上に乗っていても、平然と放っているのだ。
「お仕事、いっぱい?」
「ああ、かなりため込んでたからな」
「もー、タケちゃんは仕方ないなー」
もぞもぞと晴音は、健の肩から机に移動した。机の上にぺたんと座り、健が広げている書類を覗き込む。それで机の半分は晴音に占領されたことになる訳だが、健はやはり気にもしてないようで書きものを続けた。
「お手伝いしてあげようか?」
「いや、これは俺の仕事だ」
「わかった、男の仕事に手を出すな、だね」
自分で言っていることの意味をわかっているのかいないのか、晴音は得意気にそう言うと、両手を腕の前で組んでうんうんと二、三度頷いた。それから、机の上から身を乗り出して器用に机の引き出しを開けて、文房具がごちゃごちゃと入っている中からサインペンのセットを出した。晴音が十二色並んでいる中からピンクを選んで引き出すのとほぼ同時に、ほれっと健がいらない紙をくれる。
「さいたぁ、さいたぁー、ちゅーりっぷのはながぁー」
調子っぱずれに歌いながら、晴音は健に貰った紙にぐりぐりと落書きを始めた。どうやらチューリップを描いているらしい、ピンクの花がどんどんと増えていく。
「なーらんだ、なーらんだ、ぴんくぴんく、ぴんくー」
自分の都合のいいように歌詞を変えて適当に歌い、晴音はピンクの花を描く。健は、何も言わない。晴音がいくらでたらめな歌を歌っても変だぞとは言わないし、どんなにきれいに絵を描いても、上手に描けたなんて言うこともない。
だけど、何も言わないけれどそばにいることを許してくれる。
兄である雪都と一緒にいるのも晴音は大好きだけれど、だけどやっぱり一番好きなのは健のそばだった。世界で一番好きな人のそばが一番いいに決まっている。
「どのはなみても、ぴんくだなー」
歌い終わると、晴音はペンを緑色に変えた。そして、チュ―リップの葉の部分を描きながらまた咲いた、咲いたと歌いだす。
健は記入が終わった書類にドンッと園長印を押して、すぐに次の書類に取りかかった。保育園の園長の仕事は、子供の相手をするよりも書類の相手をする時間の方が長い。園長は、イコール経営者な訳だから仕方のないことだが、だけど子供が好きでこの仕事についた健にしてみれば溜息のひとつもつきたくなる毎日なのだ。
「ねー、タケちゃん」
「あー、何だぁ?」
「私は、好きな人とはいっぱいいっぱい一緒にいたいけど、大人はちがうの?」
「あ?」
「お兄ちゃんに、私はお留守番してるからデートして来ていいよって言ったら、怒られた」
「はあ、何だそりゃ」
「ガキの癖に余計なこと言うな、だってさ」
出来たぁ!と、晴音はチューリップの絵を健に見せた。我ながら上手く描けたと思うのだけれど健は褒めもせず、ほらっと次の紙をくれるだけだ。
「もうすぐふられちゃうと思うな」
「兄ちゃんて、高校生だよな」
「うん、じゅけんせい」
「高三か」
高校生なんて健から見ればまだまだ子供なのだが、晴音から見れば大人なのだろう。いつも晴音を迎えに来る薄茶色の髪の少年を思い浮かべて、健はふっと表情を緩めた。
「兄ちゃんは兄ちゃんで、色々あんだろ。お前が口出すことじゃねえな、確かに」
「えー、だって私がいるからお兄ちゃん、みゅうちゃんとデートできないのかなぁって思ったんだもん」
「会いたけりゃ、何が何でも会いに行くだろ。そういう年頃だ、高校生ってのは」
「それが、行かないんだってば」
「だから、色々あんだろ」
「わっかんなぁーい!私は、タケちゃんといっぱいいっぱい一緒にいたいもん」
今度は赤いペンを取り出し、晴音は何やら歪な丸を描きはじめた。きゅっきゅっと真っ赤に塗ると、出しっぱなしだった緑のペンでギザギザとへたを描く。どうやら、いちごの絵らしい。
「タケちゃん、大好きー」
もうほとんど口癖になっているような晴音の大好きを健は受け流して、書類にざっと目を通す。
まったく、面倒なだけで面白くもない仕事ばかりだ。今は晴音が毎日毎日、こうして園長室に入り浸っているから何とか気が紛れているが、これで晴音が卒園したらどうなるんだと健は思う。三歳からこのおひさま保育園に通っている晴音が卒園するのは、もう次の春のことなのだ。
「私は、ずっとずーっとタケちゃんのそばにいるからね!」
「ずっとつったってお前、来年は小学校じゃねえか」
「……え?」
黒のサインペンでテンテンといちごの種を描いていた手を止めて、晴音は大きく目を見張った。しょうがっこう?と、首を傾げる。
「何だ、知らなかったのか?お前は次の三月でうちを卒園して、小学生になるんだよ」
「うそ?」
「何が嘘だ、とぼけんな」
ぽろりと、ペンが晴音の手から落ちた。そのままコロコロと机の上を転がるのを、何やってんだよと健が拾ったその瞬間、うわぁーんと保育園中に響き渡るような大きな声をあげて晴音が泣きだした。