130 きれいな空の色になりたい
いつから恋していたのかなんて、そんなのわからない。中学生の頃だということだけはわかる。顔を知っているだけという程度だった同級生にほのかな恋心を抱くようになったのは、確かに中学の時だった。
だけど、そこに明確な境目がある訳ではない。
気がつけば、特別だった。
目が勝手に追っていた。
ツンツンと立てた髪、不機嫌そうにいつも眉間に刻まれている皺。だけど時々、思いがけない優しい顔で笑う人。
たまにしか笑わない彼の笑顔を見れた時には、雨上がりの空に虹を見つけたような気分になれた。
本当にずっと、希羅梨は和馬を見ていた。
中学の頃から背は高かった、だけど今より痩せていた。希羅梨が和馬を見つめ続けた日々の中でいつしか、彼がまとっていた幼さは薄れていった。大人の、男の人になったなと最近思うようになった。
彼の手が、力強いことを希羅梨は知っている。
あの七夕祭りの夜、人に押されてよろけた希羅梨をしっかりと支えてくれたから知っている。
大きな手だった、希羅梨の腕なんて軽く掴んでいた。
あの瞬間、希羅梨の中で好きの気持ちが弾けたように溢れだした。
どうしようもなく胸が痛かった。
大人になんて、ならなくていいのに。
終わる時なんて、来なければいいのに。
だけど、時間は流れてしまう。
彼はもう希羅梨が恋した中学生の彼じゃない、時間は止まってくれない。
ずっと見ていた、希羅梨は本当にずっと和馬を見ていた。
ずっと、恋をしていた。
「お、新作?」
部屋に入るとすぐに春樹は、テレビ台の上においてある希羅梨お手製のくまのぬいぐるみに手を伸ばした。くまは先日出来上がったばかりの、希羅梨のものとお揃いのピンクの浴衣を着ている。
「そっか、これ作るために浴衣の残り布をもらいに来たんだ?てっきり袋でも作るんだと思ってたよ」
先日の七夕祭りに着て行った希羅梨の浴衣は、和裁が趣味の春樹の母が縫ってくれたものなのだが、祭りの後で希羅梨は、余り布があったら欲しいと春樹の家にもらいに行ったのだ。
「まだ布あるから、袋も作るつもりだよ。丸い巾着袋にしようかと思ってるんだぁ。でも、どうせ来年のお祭りまで使わないだろうから、作るのは受験が終わってからにする」
「くまの浴衣は縫った癖に」
「くまは、いいの!」
何それと笑いながら、春樹はぬいぐるみを持ったままでどっかりと絨毯の上に座った。学校帰りだから制服のままなのだが、プリーツのミニスカートが広がるのも気にせずに足を胡坐に組む。勝手知ったる親友の部屋で、お行儀よくする気は春樹には全くないらしい。
「春樹ちゃん、アイスコーヒーでいい?」
「うん、ありがと」
春樹はぬいぐるみを小さなガラステーブルの上に置くと、鞄を開けてごそごそと今日返って来たテスト用紙を取り出した。
他の教科はなんとか平均点を上回ったが、英語がヤバイのだ。かろうじて赤点は免れているが、受験生としてそれでは困る。
春樹は地元の体育大学を受験するつもりだから、英語はもちろん受験科目に入っている。どうにかしてこの夏に挽回しておかないとマズいと、文系は何でも大得意な希羅梨の部屋にこうして押しかけて来たのだ。もっとも、そんな理由なんてなくてもいつも入り浸っているのだけれど。
「春樹ちゃん、スポーツ推薦が来てるんじゃないの?」
「来たけど、どの大学も遠いんだよ。家から通うのはムリ」
「一人暮らしは、しないの?」
「しない、親が絶対に駄目だって」
「そっかぁー」
春樹は空手で全国二位という腕前だから、有名無名取り合わせて何校もの大学から誘われている。だけどどの大学も遠くて、春樹は気乗りがしなかった。親が娘の一人暮らしにいい顔をしないというのは嘘ではないが、春樹自身が行きたいと思わないのだ。
冷蔵庫からアイスコーヒーのペットボトルを出すと、希羅梨は氷を入れたグラスにコーヒーを注いだ。春樹はブラックで飲むから、希羅梨のグラスにだけ牛乳を足す。細身のスプーンでかき混ぜると、氷がカランと涼しげに鳴った。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
帰り道にあるおいしいパン屋で、二人は昼食を買って来ていた。春樹にツナサンドを渡してから希羅梨は、自分用のトマトサンドもガザガザと袋から取り出した。
「それで春樹ちゃん、英語、何点だったの?」
「41」
「あちゃー」
春樹からテスト用紙を受け取ると、確かに右上に赤い字で41と書かれている。ちなみに希羅梨は、単語のスペルをひとつ間違えただけの98点だった。春樹とは、実に倍以上の差があるということだ。
「これ食べたら、がんばろ」
「悪いね、希羅梨だって自分の勉強があるのに」
「いいのいいの、人に教えるのっていい復習になるんだから」
「先生、お願いします」
「まっかせなさーい」
春樹が芝居がかった仕草で恭しく頭をさげて見せれば、希羅梨がドンと胸を叩いて見せる。そして二人、声を揃えて笑った。
受験生だから、今年の夏は猛勉強すると希羅梨は固く決心している。そして、天涯孤独の身の上だからもちろんバイトもする。希羅梨の両親はこの世の中のどこかに今でも生息している筈ではあるけれど、希羅梨にはあまり関係ないことだから、ここはやはり天涯孤独を名乗っても罰は当たらないだろうと思う。
夏休みは、長いようで短い。気がつけばすでに八月の後半というのがいつものことだから、今年は最初から飛ばし気味で行こうと思う。
勉強と、バイト。
彼のことなんて考える暇もないくらいに、頑張ってやろうと思う。
春樹には、もう諦めることにしたと言った。今は恋どころじゃないから、勉強するんだと笑って言った。そうしたら春樹は希羅梨を、いきなりぎゅっと抱きしめた。そして頑張れと、ただ一言だけ泣きそうな声で囁いてくれた。
やさしさに救われる。
いつだって希羅梨は、春樹に救われる。
春樹が地元を離れようとしないのは、自分のためだと希羅梨は知っている。この優しすぎる親友は、希羅梨をひとりにすることがどうしても出来ないのだろう。
空手で有名な大学から誘われているのに、それを迷いもせずに断って受験勉強をしている。本当なら希羅梨が、スポーツ推薦を受けなよと言うべきなのだろう。だけど、言えない。それだけは、どうしても言えそうにない。
ずるいだろうか、弱いだろうか。
こんな自分を大嫌いだと、希羅梨は思う。
だけど、どうしても言えない。
例えば、和馬が希羅梨の手を引いてくれる人ならば、春樹は希羅梨の後ろを支えてくれる人なのだろう。手を引いてくれる人はいなくても、希羅梨は迷いながらでも何とか自分で歩いて行ける。だけど、支えてくれる人がいなくなれば途端に崩れるだろう。もう、立ち上がることさえ出来なくなりそうで。
「春樹ちゃん、ごめんね」
「何を急に謝ってんのよ?」
「なんとなく」
「何、それ?」
いつから彼に恋してたのかなんて、今更いくら考えても思い出せない。切欠ならわかる、兄を喪ったあの時だろう。
悲しみのどん底でうずくまり、動けなくなっていた希羅梨を救いあげた彼の何気ない一言。
そう最初から、和馬は希羅梨の手を引いてくれる人だった。だけど、あれだけで好きになったなんて、ちょっと単純過ぎるんじゃないかと希羅梨は思う。
救ってくれたからとか、そんなことは好意を持つ切欠にはなっても恋する理由にはならないと思う。だから、あの時は違う。あの瞬間に恋に落ちた訳じゃない。
だったら、いつだったんだろう?
気がつけば、特別だった。目が勝手に追っていた。好きだった、本当にずっと恋をしていた。だけど、それはもう過去のことだ。
恋のはじまりがいつだったかはわからないけれど、終わりならわかる。夏祭りの夜、希羅梨の中に長い時間をかけて積もりに積もって、どす黒く汚れていた想いを花火が咲いていたきれいな夜空に解き放った。
希羅梨は、もう和馬に恋してない。
好きじゃない、もう好きじゃない。
ツナサンドをあっという間にたいらげて、照り焼きチキンサンドの袋をバリバリと開けている春樹の向こう、レースのカーテンのかかった窓から夏の鮮やかな空が見える。
今の希羅梨は、あの空のようにきれいな色だろうか?
黒く濁った嫌な部分は捨てた、きれいに全部捨ててしまった。
もう好きじゃない。好きじゃない、好きじゃない。
「あ、これ美味しい」
「ホント?」
「うん、食べてみ」
春樹が差し出した照り焼きチキンサンドを一口かじると、なんだか懐かしいような味がした。
美味しくて、笑いたくなる。泣きたくなる。大親友の春樹が美味しいでしょと得意気に笑っている、こんな些細な幸せに胸が潰れるように痛い。
「美味しい!」
希羅梨が笑うと、春樹も笑う。だから、希羅梨は笑う。泣きたいような気もするけど、とにかく笑う。
「新製品だよね?私もそれにしたらよかったなぁ」
「半分あげるよ、はい」
「え、いいの?」
「その代り、希羅梨のフィッシュバーガー半分ね」
「おっけ!」
長く伸ばした髪の先まで、手や足の指先まであのきれいな空の色になりたいと希羅梨は思う。この優しい親友の隣に居座るのに相応しい、汚れなき色になりたい。