129 乾いた瞳で
帰りのホームルームが終わると、永沢雪都とラーメンを食べに行くという和馬に手を振ってからセスナはすぐに教室を出た。そのまま玄関には向かわず、特別教室がある別棟に向かうべく渡り廊下を渡る。
手芸部が部室にしている被服室は、一階の北端にある。見事なほどに日のあたらない、薄暗い教室だ。
階段を降り、人気のない閑散とした廊下を進みセスナは、突き当たりの戸を開けた。六人掛けの大きな机が並んでいる間をぬって教室の後ろまで行き、手芸部専用になっているロッカーの前に立つ。
試験が終わると夏の大会に向けてすぐに練習を始める運動部とは違い、文化部は期末試験前に活動休止になってから、そのまま夏休みを迎える部が多い。部員が十人にも満たない弱小部である手芸部もその口で、夏休み中に文化祭の打ち合わせと称した集まりが一度あるだけで、あとは二学期まで部活はない。
元々、手芸というものは個人でこつこつと手を動かすものなのだから、部室に集まること自体があまり意味のないことなのだ。夏休み中にある文化祭の打ち合わせも、私は何を作りますと宣言するだけで終わる。というか、打合せはさっさと済ませて、あとはみんなでちょっとおしゃれなカフェでお茶する方がメインだったりする。
何かテーマを決めるとか、大きな作品をみんなで作るというようなことは、この沢浪北高校の手芸部ではやっていない。それぞれが好きなものを好きなように作るという自由な気風がセスナには合っている、だから三年生になった今でもこうして続けられているのかもしれない。
セスナは鞄を探ってポーチを取りだすと、その中からうさぎのキーホルダーがついた小さな鍵を取り出した。部員に渡されているロッカーの鍵だ。その鍵を使って、セスナは横幅にして一メートルほどもあるロッカーを開けた。長年使っているためにあちこちに傷だらけの扉をぐっと力を入れて引くと、中には手芸の道具や材料がこれでもかというくらいに押しこまれている。
セスナは膝を折り、床の上に蹲るようにしゃがんだ。個人の作りかけの作品なんかは下から二番目の棚に入れることになっているので、しゃがまないと取り出せないのだ。
右端の方に、ショップの名前が印刷されたピンクのビニール袋を見つけて引っ張り出す。中に入っているのは、刺しかけのクロスステッチだ。文化祭に出すつもりの、菫の花のタペストリー。
これを持って帰らないと、家で刺繍できない。
二学期からは勉強に専念したいから、夏休み中に完成させるつもりだった。
セスナは、袋の中身を確認してから立ち上がろうとした。しかし、一番下の段に鎮座しているミシンにふと目が止まった。
それは、家庭科の授業で使われるミシンよりかなりグレードの高い、刺繍も出来る手芸部のミシンだ。何年分もの部費を積み立てて、やっと買ったと聞いている。セスナが入学するずっと前のことらしいから今ではもう最新型とは呼べないが、それでもみんなで大切に使っている。
セスナは手を伸ばし、ミシンの上部にそっと触れた。手芸部に入部してしばらく経った頃にこのミシンの使い方も習ったが、だけど教えてもらった通りにしている筈なのに何故か糸は切れまくり、縫い目は飛びまくった。
最後には動かなくなってしまって、先輩にごめんなさいと言われた。この『ごめんなさい』は、『あなたはもうミシンに触らないで、ごめんなさい』だ。つまり、手芸部の部員なら誰でも自由に使っていいミシンを使わないでと言われた訳だ。それ以来、セスナの作るものはクロスステッチ刺繍の作品ばかりになった。
ゆっくりと、固い感触を確かめるようにセスナはミシンを撫ぜた。こうしていると、『polka dots』の本店に見学に行った時のことを思い出してしまう。憧れのデザイナーが案内してくれた縫製室では、軽快なミシンの音が響いていた。健吾くんと楓ちゃんよと紹介された縫製係の二人は、セスナにどうもと挨拶する間も手を止めず、驚くようなスピードで鮮やかに布を操っていた。
もしもミシンが使えれば、あんなに可愛い服がこの手で作れるのだろうか?
卒業したら是非うちに来てねと言った、憧れの人の言葉はセスナには遠いけれど、だけどせめて一着くらい服を作ってみたい。無理だろうか、ミシンに触らないでとまで言われてしまった不器用なセスナには無理なのだろうか。
「あれ、飛鳥井さん?」
ミシンに触れながらぼんやりと思いを巡らせていたセスナは、声をかけられるまで誰かが来たことに気づいてなかった。だからいきなり名前を呼ばれて、それこそ心臓が止まるほど驚いてしまった。
「え、う、わ、あ?」
まったく意味をなさないことを言いつつセスナは、バネ仕掛けの人形か何かのように飛び上った。手芸部部長であり、三年A組の委員長でもある市川博隆は、そんなセスナに目を丸くしたけれど、だけどすぐに笑った。
「ごめん、驚かせてしまったみたいだね」
「い、市川部長であら、あらせられたのか」
咄嗟に変な言い回しになったが、セスナの高校生らしからぬ大仰な喋り方はいつものことなので、博隆は気にした様子もなく近づいて来た。
「クロスステッチ、取りに来たんだね。よかった、忘れてるようだから気になってたんだ」
「いや、これは忘れていたのではなく、試験中にやらないようにここに置いていたのだ」
「へえ、手元にあったらつい刺してしまうのか。飛鳥井さんは、刺繍が本当に好きなんだね」
そう言いながら博隆はロッカーの前に立つと、腕を伸ばしてさっきまでセスナが触れていたミシンを持ち上げた。机の上に乗せ、博隆がカバーを外すのをセスナはじっと見ていた。
一年生の時に触らないでと言われた時から三年になる今まで、セスナはなるべくミシンには近づかないようにしてきた。見ると羨ましくなるから、目をそらし続けていたのだ。
そのミシンを今は、ほとんど睨みつけるような勢いで見つめる。博隆はコンセントを刺してから椅子を引いてミシンの前に座ると、電源のスイッチを入れた。
「……何か縫うのか?」
「いや、前に使った時にちょっと調子が悪かったから見に来たんだ。修理に出すなら、夏休み中の方がいいからね」
「そうか……」
博隆は、男でありながらミシンを使わせたら見事な腕前なのだ。縫っているところを見たいとセスナは思ったのだが、残念ながら縫物はしないらしい。
「飛鳥井さん、文化祭は今年もクロスステッチ?」
「ああ、これを出すつもりだ」
そう言いつつ、握りしめていたピンクの袋を少しだけ上げて見せる。最近は部活中もずっとこの菫のタペストリーを刺していたから、博隆にはそれだけで通じる。
わかったという代わりに頷いて見せてから博隆は、下糸を取り出して、そこに詰まっていた埃を専用の細いブラシでかき出し始めた。
「刺繍以外の手芸は興味ないのかい?編み物とか、洋裁とか」
「やってみたのだが上手く出来なくて、その……」
「最初は誰だって下手だよ、続けてみなくてはうまくならないだろう?」
「それはそうなのだが、私はどうにも不器用で」
「そんな根気のいるクロスステッチを刺す癖に、何を言ってるんだか。もうすぐ引退なんだから、何か他のこともやってみたら?」
「……」
ミシンを使わせて欲しい、それで可愛い服を縫いたい。レースとフリルをふんだんにあしらった白いワンピースがいい。着るのが目的ではない、ただ作りたいのだ。
「僕でよかったら、教えるよ。編み物でも洋裁でも、ひと通りは教えられるから」
「ほ、本当かっ」
思わず叫んでしまった。博隆はまた驚いた顔をしたが、それも一瞬だけのことだった。そして、いつでもどうぞと言いながら立ちあがると、ロッカーからハギレを取り出した。それをミシンにセットして、走らせる。試しに縫ってみて糸調子を見ているだけなのだが、セスナは吸い込まれるようにぐっとミシンに顔を近付けた。
「洋裁がやりたいんだ?」
「ふっ、服を縫いたいのだ」
「どんな服?」
「その……ワン……ピースをだな、作りたい……のだが」
難しいだろうかと心配そうに訊くセスナに博隆は、デザインによるねと答えた。レースやフリルをたくさんつけたいと言ったら、それはちょっと難しいかもねと言われた。
「二学期に入ったらすぐに始める?一着くらいなら、初心者でも二週間もあれば出来る思うよ。せっかくだから文化祭に出品したらいい。三年は文化祭で引退だから、最後の作品だね。デザインを教えてくれたら型紙を探しておくよ。慣れるまでは既成の型紙を使った方がいい、その方が作りやすいし、失敗も少ない」
自分だって受験勉強があるだろうに、博隆はそんなことを言ってくれる。ありがたいと思った、嬉しいと思った。だけどセスナは、首を横に振った。
「いや、いい。文化祭には、このタペストリーを出す」
「でも、ワンピースを縫いたいんじゃないのかい?」
「良いのだ」
お先に失礼すると頭をさげて、セスナは歩き出した。振り向くことをせずに被服室を出て、廊下に出ると走り出した。校舎を飛び出し、上履きのままで中庭を突っ切る。
上を向いて、セスナは走った。うつむくことはしたくなかった、うつむいて走るなんて惨めな気がした。
真っ青な夏空を、白くて大きな雲がゆったりと流れて行く。
あんな風に自由に生きれたらと思わずにはいられない、だけど。
卒業したら是非うちに来てねと言った、憧れの人の声が忘れられない。忘れたつもりなのに、何度でも蘇ってしまう。
せめて一着だけでも服を作ってみたかった。
夢のように可愛い服を、この手で作ってみたかった。
だけど一着でも作ってしまったら、もっと未練が残ると思った。これ以上、苦しくなるのは嫌だと思った。
見上げる遥か頭上、白い雲がゆったりと流れて行く。泣きたいような気がしたが、瞳は乾いたままだった。