12 英語のノートと深夜の電話
突然鳴り出した脳天気な音楽で、うたた寝していた雪都はガバッと身を起こした。慌てて枕元に散らばっている絵本をどけて音の根源である携帯を発掘したのは、電話をかけている誰かを待たせてはいけないと思った訳ではない。
携帯の着メロで、せっかく寝ついた晴音が起きてしまったらたまらない。雪都の携帯の着メロは晴音ウケを狙って子供向けの某アニメの主題歌にしてあるせいで、余計に起こしてしまいそうなのだ。
ようやく携帯を探し出して雪都は、通話ボタンを押した。やっとお馴染みの曲が途絶えると、その代わりにお馴染みの声が耳に飛び込んで来る。
「雪都君、ゴメン。寝てた?」
「いや、起こしてくれて助かった。ちょっと待って、移動する」
携帯を耳に押し当てたままで雪都は立ち上がった。晴音がちゃんと肩まで布団に包まっているのを確認してから部屋の灯りを落とし、そっと足音を立てないように外に出る。晴音は一度寝入ってしまうと朝まで起きないが、まだうとうとしている寝入り端に音を立てるとすぐに目を覚まして泣き出すのだ。
「もしもし、姫宮?」
「雪都君、もういいの?」
「おう、大丈夫みたいだ」
雪都が部屋から出ても、晴音の泣き声が聞えてこない。これは、しっかりと寝入っている証拠だ。
「晴音を寝かしつけてて、一緒に寝ちまった」
「そっか、お兄ちゃんも大変だね」
「まったくだ。うちの親は、俺が受験生だって知ってるのかね」
「雪都君だったら大丈夫だと思ってるんだよ」
「いや、ありゃ何も考えてないだけだ」
医者である父・秋雪と、看護婦である母・十和子は二人で同じ病院に勤めている。救命救急センターの医者と看護婦なんて、決まった勤務時間などあってなきが如しだ。確か、今夜は父は夜勤だが、母は八時には帰ると言っていたような気がする。もっとも、いつも適当に聞き流しているから定かではないけれど。
喋りながら階段をあがり、雪都は自分の部屋に入った。電気をつけて、開けっぱなしだったカーテンを引き、それから学校から帰ったまま放り出してあった鞄を開けて片手で中身を机の上に出し始める。
「何か用か?」
もしも本物の彼女からの電話なら、こんな風には言わないだろう。けれど、雪都と希羅梨は偽の恋人同士なのだ。用がなければ電話することなどない、ましてやこんな時間だ。机の上のデジタル時計は、もうすぐ日付が変わると教えてくれている。
「あのね、私の鞄の中に雪都君の英語のノートが混じってたの。ゴメンね、間違って持って来ちゃったみたい」
「そんなこと、別にいいのに」
「でも、探したら悪いと思って。ね、使うでしょ?私、明日家まで持って行くよ」
「いいよ、月曜で」
「だけど、勉強するでしょう?」
「いいって、英語のノートなんてなくても別に困らない」
今出した教科書やノートをざっと確認してみると、確かに英語のノートがないようだ。
「月曜に学校に持って来てくれたらいい」
「……そっか」
雪都は、希羅梨の声に僅かに眉を寄せた。つき合っているのはフリだけれど、それでもこの一年、雪都は希羅梨と一緒に過して来た。僅かな声の変化くらいは聞き取れる。
「何かあったか?」
「別に、何もないよ」
「ふーん」
希羅梨が何もないと言うのなら、それ以上訊くつもりは雪都にはない。そんな権利はないと思っている。あくまでも、雪都と希羅梨は共犯者でしかない。
雪都は希羅梨という彼女がいることによって女の子たちからの告白から逃れているし、希羅梨は希羅梨で、雪都のおかげで和馬と今でも友達でいられる。
ギブアンドテイク、二人の利害は今のところ一致している。
「ねえ、雪都君……私たち、別れた方がよくない?」
「何で?」
「だって、せっかく中森さんと同じクラスになれたのに、彼女がいたらまずいでしょ」
「阿呆、変な気まわすな」
「だけど」
受話器の向こうで、希羅梨が何か迷っているのを雪都は感じた。どうやら、英語のノートは口実だったらしい。
「別れたいなら一言、契約解消つったらいい。どちらか一方がもうやめると言ったらもう片方に拒否する権利はない、そういう約束だよな?」
「うん、それはわかってる」
「契約、解消したいのか?」
「したくない、それはまだ困る」
「だったら何を言いたいんだよ、お前は」
「うーん、何だろ」
「阿呆」
雪都と希羅梨は恋人ではないけれど、だけど二人は間違いなく友達なのだ。それも、親友と言ってもいい程の。
雪都は軽く息を吐いた、希羅梨の性格はかなりしっかりと把握している。
「あのな、中森のことは気にすんな。俺はどうするつもりもないから」
「だけど、好きなんだよね?」
「どうかな、よくわからん」
「何よ、それ」
「うるさいよ、わからんものはわからん。とにかく、もし俺がもう辞めたいと思ったらすぐに契約解消って言うから、それまではこのままでいいだろ」
「……うん。雪都君がいいなら、私はそれでいい」
「じゃあ、問題なしだ。切るぞ」
「え?ちょっ、雪都君」
希羅梨はまだ何か言っていたが、雪都はかまわず回線を切断した。ついでに電源も切ってから、中身を出してからっぽになった学生鞄の中に携帯を突っ込む。
このままこの土日は電源を入れないことに決めて、雪都は立ち上がった。勉強する気はすっかり失せてしまった、雪都はベッドの上にゴロンと寝転んだ。
―― だけど、好きなんだよね?
おせっかいな希羅梨の声が、まだ耳に残っている。
―― 好きなんだよね?
「そんなこと、わからん」
聞く者のない雪都の独り言が、虚しく空中で霧散する。
正直なところ、雪都はまだ恋とか呼ばれる感情がよく理解できなかった。美雨のことが気にならないと言えば嘘になる。気づけば目で追っているし、美雨のちょっとした変化でも雪都は気づいてしまうのだ。
だけど、それが恋なのかどうかはわからない。わかりたいとも思わない。
希羅梨が、和馬のことで一喜一憂するのも理解できない。
和馬とセスナはもう別れることはないのではないかと、雪都は思っている。それ程あの二人は、しっかりと結びついているように見える。
だったら和馬なんて諦めればいい、希羅梨なら言い寄って来る男など他にいくらでもいる。和馬より優しい男も、和馬より頭のいい男も、和馬より恰好いい男もいるだろう。
だけど希羅梨は和馬が好きだという、望みはなくても好きだと言う。
この人でなければ駄目だという、その絶対的な感情を雪都は理解できない。果たして雪都は、美雨でなくては駄目なのだろうか?
「わっかんねえ」
いくら考えてもわからない、どうして気づけば美雨を目で追っているのか。
「……」
ただ一つだけわかっていることは、美雨を見てると何故か心臓のあたりが痛くなるということだけだ。時々だけど、どうしようもなく痛くなるのだ。
雪都の携帯電話は、いわゆるガラケーです。
この小説の舞台である2000年代では、スマホはまだなくて、ガラケーなんて言葉もなかったです。
lineもないです、メールです。
スマホで着メロって設定しますかね、私はしてないです。
でもこの時代は、みんなしてましたね。
着メロ設定して、待ち受けを好きな写真にして、ストラップじゃらじゃらつけて。
ストラップをプレゼントする話とかもありますので、そういう時代だったんだなと思ってください。