128 純情ノスタルジア
恐いもの知らずで好奇心が旺盛で人懐っこくてお人好し、雪都のよく知っている中森美雨という少女はそんな女の子だった。しっかりしているところもあるけれど、どこか抜けているところもあるのが美雨だ。
猪突猛進が美雨の十八番で、危なっかしくて雪都はいつも目が離せなかった。
いつだったか、確か小学校に入学したばかりの頃だった。道路に飛び出して車にひかれそうになった猫を助けようと美雨は、いきなり駆け出したことがある。その時は、幸いなことに雪都が一緒にいた。だから、白いガードレールに行く手を阻まれて、一瞬だけ足を止めた美雨を後ろから羽交い締めにして止めることが出来た。勢い余って、二人揃って歩道で尻もちをついた。その目の前で、猫はひらりと身を翻して華麗に車を避けて見せた。
確か、あの後で大ゲンカになったんだよな。
なんて危ないことをするんだと怒った雪都に最初は神妙な顔をしていた美雨だが、こんなことはもう二度とするな絶対にするなとしつこいほど繰り返したら、しつこいと怒りだしたのだ。そんな時の美雨の捨て台詞は、いつも同じだからよく覚えている。雪くんのバカ、だ。そう叫んで、走って逃げる。それがいつものパターンだった。
恐いもの知らずで好奇心が旺盛で人懐っこくてお人好し、それに加えて気が強い。他の人に対しては素直で実にいい子な美雨なのだけど、雪都に対してだけはたまに逆切れしてこんな風につっかかって来ることがあった。
三日くらい、口きかなかったよなぁ。
丸々三日間、口をきかなかった。だけど、三日しかもたなかった。四日目の朝には、美雨は雪都の隣にちょこんと座っていた。雪都がちらりと美雨を見ると、えへへっと誤魔化すように笑った。
喧嘩なんて数えきれないほどしたけど、いつもいつの間にか元に戻ってたよな。そう言えば、あいつの口からゴメンとか聞いたことないかも。俺も言ったことないけど。
要するに、意地っ張りなところが二人の共通項目ということだろう。
喧嘩なんて、数えきれないほどした。だけど、いつもいつの間にか元に戻っていた。雪都と美雨の間では、ごめんなんて言葉にしなくても通じ合えた。えへへと誤魔化すように笑った美雨の瞳の奥に、本当は大好きだよのサインが見えた。
あの頃の雪都は、確かに美雨の一番だった。そして美雨は、雪都にとって特別な女の子だった。
もしも何事もなければ、それは今でも変ってなかったのではないだろうか。理不尽なイジメなんてなかったら、きっと今でも二人は一緒だっただろうに。
「雪都、ラーメン伸びるぞ」
そう言われて、雪都は顔をあげた。年季の入った傷だらけのテーブルを挟んで、正面に座っている和馬の眉間の皺が目に飛び込んで来る。
「どうかしたのか、雪都がそんなぼうっとしてるのなんて珍しいよな。期末の成績、悪かったのか?」
「いつもと変わらねえよ」
「んじゃ、何を悩んでんだよ」
「別に何も悩んでない」
「その割にラーメン、伸びかかってんぞ」
俺は伸びかけが好きなんだと嘘吹く雪都に、へっとばかりに和馬が舌を出す。こいつムカつく、と思ったけれど、喧嘩している間に雪都の手元のどんぶり鉢の中ではラーメンがとても食べられない代物になってしまうだろう。今ならまだ間に合う、ちょっと伸びたけれど十分に美味しい。
「保育園て、幼稚園みたいに夏休みとかねえんだよな?」
「おう、基本的に両親が共働きの家庭のために保育園てのはあるからな。休みは、盆に一週間ほどあるだけだ」
「んじゃ、夏休み中はお前も勉強に専念出来るってことだな」
「まあ、昼間はな」
ずるずると麺をすすりながら、だけど雪都の頭の中を占めているのは受験のことでも、妹の晴音のことでもなかった。あの祭りの夜からどうにも気まずくなってしまった、教室では雪都の斜め後ろに座っている幼馴染の女の子のことばかりが気にかかる。
「ここのラーメン、美味いだろ?」
「まあまあだな」
「そうか?すげえ美味いと思うけど」
期末試験を終え、夏休みを目前に控えて沢浪北高校はすでに午前中のみの短縮授業に入っている。いつもなら帰りは夕方になるから多少は暑さが緩んでいるのだが、午前中で授業が終わって、部活も引退したとなれば、絶好調にギラギラな夏の日差しの中を帰らなくてはならない。
冬生まれは、夏生まれより暑さに弱いらしい。雪都は、その名に冬の季語を戴いていることでもわかるように十二月の真冬生まれだ。そのせいだと言う訳ではないけれど、寒さはわりと平気なのに暑さは子供の頃から苦手だった。
この暑い中を歩いて帰るのかよと、三階の教室の窓からうんざりするほど明るい外を雪都が睨んでいた時、和馬が一緒に昼飯食って帰ろうぜと遠慮なく思いきりバシッと雪都の肩を叩いた。
晴音は保育園で給食だからどうせ家に帰ってもひとりなんだろ、だったら食べて帰ろうぜ、美味いラーメン屋があるからよと、ビシバシと和馬に叩かれて、雪都はこめかみに筋を立てた。
うるせえ叩くな、このくそ暑いのにラーメンかよと雪都が怒鳴る前に和馬はさっさと歩き出していた。雪都がついて来ると全く疑ってないその足取りに、雪都は怒るより呆れた。友人ながら、なんてマイペースな男だよと。
「煮玉子が美味いだろ、煮玉子。それに、チャーシューもいけてるだろ。麺もいいし、スープもこってり。俺的には、かなり美味いと思うけどな」
「俺は、さっぱり系が好きなんだよ」
「そうだったか?」
「そうだ」
ラーメンはやっぱりこってりだろうと言いながら、白濁したとんこつスープをずずずっと和馬は飲み干した。そして、どんぶりをトンッとテーブルに戻してから、何か食い足りねえなと呟く。
「お前、痩せの大食いだよな」
「そうか?お前が食わねえだけだろ」
「俺は、普通だろ」
「いや、その図体にしちゃ食わねえ方だって。腕見せろよ、筋肉ついてんのか?」
「陸上部は、足に筋肉がつくんだよ」
「足だって細い癖に、何言ってんだよ」
「細くねえよ、普通だっての。お前だって人のことは言えねえだろうが、ガリガリの癖して」
「プリプリよりいいだろうが」
「何だよ、プリプリって」
「プリプリは、プリプリだろうが。プリプリ好きの癖に、何を言ってんだよ」
「誰がプリプリ好きなんだよ」
「お前だ、お前。あの姫宮とつき合ってて、プリプリ好きじゃないとは言わせねえ」
「あー?」
グラスの水をぐっと一気に飲むと、和馬は水くれと声をあげた。すると、奥から白い割烹着に三角巾をつけたおばちゃんが出てきて、大きなやかんから和馬が差し出したグラスに水を注いでくれた。
二杯目の水もぐっと一気に飲み干した和馬を、雪都は珍しいものでも見るかのように見ていた。この朴念仁の口から、プリプリなんて俗な形容詞が出てきたことからして驚く。しかも、それを女の子に当てはめたのだからさらに驚く。
「……お前は、プリプリ好きじゃないのな」
「あ?」
和馬の彼女であるセスナはスレンダーな体型で、どう頑張ってもプリプリとは形容できない。それを言うなら、ずっと雪都の頭を占めている幼馴染の彼女だってどちらかと言えばスレンダーな方で、こちらもプリプリとは言えない。
だけど、雪都だって知っていたりする。
美雨はもう、雪都のいつも隣にいた小さな女の子ではない。
紺色の浴衣を着た彼女の姿が、脳裏に鮮やかに浮かぶ。子供の頃は、二人揃って小柄だった雪都と美雨の背丈はあまり違いがなかった。だけど今では、美雨の頭の天辺は雪都の肩にも届かない。
男と女なのだから、成長すれば身長差が出るのは当然のことなのだけれど、その身長差のせいで雪都は彼女を上から見下ろすことになってしまう。
雪都はいけないと思いつつもあの夜、彼女の隣を歩きながら上から浴衣の襟の合わせ目をつい何度か見てしまった。布地を押し上げている胸のふくらみは、当たり前だけど昔はなかった。丸みをおびた身体に紺色の浴衣をまとった彼女はあまりに可愛かった、思わず手を握ってしまったほどに。その手をそのまま、離せなくなるほどに。
子供の頃だって美雨は、雪都にとって絶対に守りたい大切な女の子だった。それは今でも同じなのに、だけど子供の頃にはなかった衝動が今はある。
彼女に触れたい、彼女を自分のものにしたい。
美雨を守りたいという純粋な気持ちが汚れてしまったような気がして、雪都は自己嫌悪を感じてしまう。大人になるということは、実はあまりいいことではないのかもしれない。
「プリプリ好きじゃないなんてお前、男じゃないよな」
低く唸るようにそう言って、雪都は和馬をにらんだ。それこそプリプリと形容するのに相応しい希羅梨にあれだけ好かれていながら振り向かない和馬は、雪都に睨まれる理由がわからずに眉間の皺を深くした。
「何をいきなり決めつけてんだよ、俺だってそれなりにプリプリは好きだぞ」
「あの飛鳥井とつき合ってて、よく言う」
「雪都、お前……それは、いくら何でもセスナに失礼じゃねえのか?」
和馬に水を注ぎに来て、そのまま他のテーブルを片づけていた割烹着のおばちゃんが堪らずぷーっと吹き出した。この辺りでは進学校で有名な沢浪北高校の制服を着た、かなりカッコいい男の子二人組の会話にこっそりと耳をそばだてていたのだ。
「……」
「……」
おばさんが慌ててバタバタと奥に引っ込んで行ってから、どんぶりの底の方にいくらか麺を残したままで雪都は箸を置いた。
額に汗が滲んでいる。やはり、こんなクソ暑いのにラーメンなんて食うものじゃないと、雪都は思った。