127 青空に溜息
校門を出て、頭上高く広がる青い空を見た途端に美雨は、思わずハァッと溜息をついてしまった。
今日、採点されて返って来た期末テストの用紙が頭をちらつく。
高校三年生の受験を控えたこの大切な時期に、なんて成績を取ってしまったのだろうか。どれもこれも平均点すれすれの低空飛行だ。得意な国語と、あとは阿久津の担当教科である日本史だけがなんとかいつもの美雨の点に達していた。沢浪北高校では順位は発表されないが、前回の中間テストよりかなり落ちたことだけは確実だ。
早くお父さんに頼んで、家庭教師の先生を探してもらおう。
家に帰ったらすぐに電話しようと決めてから、美雨は足早に歩きだした。七月も半ばを過ぎた太陽が、遠慮なく美雨の白いセーラー服の背中に照りつける。右手に持った、学生鞄がずっしりと重い。すぐに全身から汗が吹き出して来て、美雨は不快感に顔をしかめた。
予備校は、あの夜から行っていない。あの七夕祭りの夜に、彼に言った言葉が嘘にならないように行っていない。
つまりは無断欠席している訳だが、予備校は学校と違って出席を取る訳ではないから問題ないだろう、こちらが授業料を損するだけのことだ。
そう、予備校は確かにさぼった。だけど美雨はいつも通りに、いやいつも以上に試験勉強をしたつもりだった。
なのに、この成績だ。
いくら机に向かっても、教科書の内容がちっとも頭に入らなかった。なんだか胸が苦しくて、そればかりが気になった。
こんなに苦しいのは、何故だろう?
何人かの顔が浮かんでは消え、浮かんでは消える。お祭りの夜に、男の子と二人きりでいるところを見られてしまった、憧れの先生。そして、いつも美雨を気遣ってくれる優しい幼馴染と、彼が好きな長い髪の彼女。
胸が苦しい、あの夜からずっと苦しい。
「参考書、買って帰ろうかな……」
信号待ちの間に車がひっきりなしに行きかう道路の向こうによく行く書店が目に入って、美雨は小さく呟いた。今回のテストでは、特に数学がひどかった。元から理数系は苦手なのだが、不得意科目があるのは受験で不利だと聞いている。
今は、高校三年生の夏。
受験生にとって、とても大切な時期だ。
とにかく今は、今だけは受験のことだけを考えたい。他のことは後回しでいいと思う、明条大に合格することだけに自分の全てを傾けたい。
何かわかりやすい参考書はないだろうかと思いながら美雨は、信号を渡ったその足を書店に向けた。自動ドアをくぐると、入口のすぐ横にあるレジで本の袋詰めをしていた若い女の店員のいらっしゃいませの声と、冷房で冷やされた空気が迎えてくれた。
背中の汗が一瞬にして冷たくなった気がして、美雨はぶるっと小さく肩を揺らした。冷え過ぎと、これも小さく呟いてから参考書売り場に向かう。
学校から近いこの書店にはよく来るので、売り場の配置はほぼ把握している。参考書は、奥の方にある。美雨が迷わず角を曲がると、そこには見知った顔がやはり参考書を選んでいた。
「あ、時田くん!」
美雨の声で振り向いた時田崇は、一瞬だけ驚いた顔をしたがすぐに笑った。
「中森さんも参考書?」
「そう、今度のテストで数学がひどくて」
「中森さんて、理数系は苦手だよね」
「やだ、気にしてるんだから言わないでよ」
うーっと唸って見せる美雨に時田は目を細めた、こんな風に話すのは久しぶりのことだ。学校でも同じクラスだし、予備校も一緒になるのだが、予備校から一緒に帰らなくなってから崇は、何となく美雨に話かけづらかったのだ。
「最近、予備校に来ないね?」
「うん……あそこ、辞めようと思ってるんだ。家庭教師の先生をお願いするつもり」
「そうなの?」
「うん、予備校ってあまり合ってなかったみたい。そんなに成績もあがらないし」
「じゃあ、永沢くんは?」
「……永沢くん?」
棚に並んでいる参考書の背表紙を辿っていた指を美雨は止めた。受験に専念したい今だけは聞きたくないと思っていた名前が聞こえてしまったからだ。
「えっと……あ、時田くん、今まで遠回りさせちゃってごめんね。時田君の家が坂上町だなんて知らなかったから……うちに寄ってから帰るの、すごく遠かったよね」
「いや、そんなことはいいんだ。僕が勝手にしていたことだし、それにあれは運動不足解消のために歩いてたんだよ」
「あ、そうだったんだ?」
「うん、そう。僕は何もスポーツをしていないからね、体がなまると体力が落ちて受験に支障をきたすと思って、だから歩いていたんだ。中森さんを送っていたのはそのついでだから、全然気にしないで」
「そうなんだ、それならよかった」
かねてから用意していた言い訳で美雨がほっとしたように微笑むのを見て、時田もほっと胸を撫で下ろした。それはそれでいいが、だけど気になることはまだ残っている。
鼻先で彼女を掻っ攫われたあの日からずっと気になっていたのに訊けなかったことを、時田は訊いてみた。
「ねえ、中森さん。永沢くんて、姫宮さんとつき合ってるよね?まさかと思うんだけど中森さん、もしかして……」
「やだ、勘違いしないで。永沢くんてね、家が近所の幼馴染なんだ。だから、ちょっと迎えに来てくれただけなの。つき合うとか、そんなんじゃ全然ないから。ほら、永沢くんは妹の晴音ちゃんを連れてたでしょ?本当に、近所で幼馴染だからちょっと迎えに来てくれただけなんだよ」
永沢雪都が姫宮希羅梨と別れたというのは聞いていないから、もしかしたら二股をかけられているのかもしれないと崇は疑っていた訳だが、彼女のこの様子だとどうやら違ったらしい。
確かに彼は、小さな妹を連れていた。あの後も何度か彼女を迎えに来ているのを見たが、その度に妹が一緒だった。
まさかあの子がいる前で何か、例えばキスするとかそういう不埒な真似をするとは思えないので、彼女を迎えに来ていたのは文字通り迎えに来ていただけで、下心があった訳ではなかったのだろう。
だけど、崇はしっかりと覚えている。
あの時、時田から彼女をまんまと掻っ攫った時に彼は笑ったのだ。
女生徒たちからやたらともてて、担任の女教師にまで贔屓されている永沢雪都という男は、崇が知る限りは滅多に笑わない。これがいつも朗らかに笑っているような奴なら気にならないが、彼はそうではないのだ。
あの時、確かに彼は笑った。
ざまあみろと、言われた気がした。
「もしかして、永沢くんて中森さんのことが好きなんじゃないの?」
崇にしてみれば、まさかそんなことないだろうけどという軽い気持ちで言ったことなのだが、だけど美雨の顔色は一瞬にして変わった。さっと青ざめたかと思うと、次の瞬間には真っ赤になった。手に持っていた数冊の参考書をばさばさと落して、慌ててしゃがみ込む。
「やだ、どうしよう。傷んじゃったかな?」
美雨が拾い上げた三冊の参考書のうち、一冊は表紙の角が折れていた。だけど、他の二冊は無傷のようで見たところ何ともなかった。
「選ぶ手間が省けちゃった、これにしよっと」
そう言って美雨は、角の折れた参考書を時田に見せて笑った。『徹底解析・数学Ⅲ』と、表紙に大きく書かれている。
レジに行くねと言う美雨に、崇はうなずいた。じゃあねと片手をあげてから、美雨は小さな声で違うからと言った。
「永沢くんの彼女は、姫宮さんだよ。よく一緒にお弁当を食べるけど、あの二人はすっごく仲がいいんだよ。私はただの近所に住んでる幼馴染、本当にそれだけだから」
そう言ってから、美雨はくるりと踵を返した。パタパタと足音を響かせて、レジの方に走って行く。
その後姿を見送りながら崇は、そんなことあるもんかと思った。
彼はあの時、確かに笑ったのだ。