126 迷い子たちの夜
七夕祭り、ラスト。
主要キャラ6人のオムニバス、いつもより長いです。
音を立てないようにゆっくりと窓を開けてセスナは、目を凝らして辺りを見回した。暗くなってから庭に出る者もいないだろうが、まだそんなに遅い時間ではないのだから油断は出来ない。
定期的に呼ぶ庭師の手によって見事に整えられた庭園に動く者がないことを確かめてから、セスナは窓枠に足をかけた。
身軽なセスナにとって、屋根に登るのは簡単なことだ。頼りない月明かりだけで、瓦に足を取られることなく天辺まで登る。
色んな角度から何度も確かめてみたが、この位置なら下から見えることはない。誰もいないのをいいことに、はしたなくも寝間着の裾を捲り上げて、屋根を跨ぐように足を開いてセスナは座った。
「おお、見事なものだな!」
遠く、夕日町の上空に咲く炎の花。小さいからか、変に作り物じみて見えた。
「和馬も見ておるのだろうな……」
美和と和香、それに希羅梨と春樹の四人の女の子たちを連れて行かなければならないとブツブツ文句を言っていた。両手両足に花ではないかと言ったら、冗談言うなと真顔で凄まれた。
きっと今頃は、女の子たちの相手にてんやわんやだろう。
楽しそうだな、楽しいだろうな、一度くらいは行ってみたかったな。
「……」
先ほどの夕食の席で兄に、怜士と祭りに行かなかったのかと訊かれたので、つき合ってもいないのに二人きりで出かけるのはおかしいから行かなかったと答えた。兄は、しばらく黙ってセスナの顔を見ていたが、やがて「そうか」と言った。それから先は、二人とも無言で食事を終えた。
怜士の気持ちに気づいていなかったと言えば、それは嘘になるのかもしれない。心のどこかで知っていた、だけど無意識に蓋をしていた。
セスナにとって怜士は、とても気安い相手だ。怜士の前で気を張る必要はまるでない、それが壊れるのがセスナは恐かったのだろうか。
怜士を好きかと問われれば、迷わず好きだと答える。だけどその好きは、家族や友達に寄せる好きにひどく似ていた。
屋根の上から眺めると、街は静かに夜に染まっている。
その上空に花が咲く。
「きれいだな……」
もうすぐ一学期が終わる、二学期になれば本格的に受験ムードになるだろう。ぼんやりしていたら、その日はすぐに来てしまいそうだ。
卒業の二文字が、セスナの中で重い。
和馬と離れ離れになるその日は、日一日と近づいて来る。
「本当にきれいだな」
遠くに見える小さな花が、不意にぼやけてぐにゃりと歪んだ。ぽたぽたと、瓦を丸く濡らしている涙を拭うこともせずセスナはひとり、花火を見ていた。
ノックもせずに敦の部屋のドアを開けた裕理は、一歩も足を踏み入れることなくその場で思いきり顔をしかめた。
「何やこれ、ゴミ?」
「ああ、生ゴミや」
「不燃ゴミに出した方がええで、燃やしたらヘンなガスが出そうや」
「そやな、不燃ゴミに出すわ」
「地球は大事にせなあかんからな」
別に用はなかったのか、それだけ言うと裕理はドアを閉めて行ってしまった。敦はすっくと立ち上がると、床にうつぶせで転がっている不燃ゴミの日に出すべき生ゴミ……もとい、怜士の腹のあたりをガシッと蹴った。
「ああ、鬱陶しいやっちゃな!死ぬんやったら、自分の家で死ねや。この家では俺、居候なんやで。肩身狭いんやから、押しかけて来んなや」
ガシガシと何度も蹴られて、怜士は「うー」と低く唸った。
「大体なぁ、ふられてないんやろ?待ってくれなんて、OKされたんと一緒や。それやのに、なんでお前は死んどんねん。訳わからんわ」
「……別に、死んでねえよ」
「ああ?」
「今はな、力を溜めてるとこだ」
「んなことは、自分の家でやれっちゅーねん!ったく、ジメジメジメジメと鬱陶しいねん。梅雨はもう終わったで、これからは夏や、夏」
「わかってるっての」
そう、もう夏だ。高校生活最後の夏が来る。そして、夏の次には秋が来て、そしてその次には冬になる。
季節は瞬く間に巡るだろう、ぼんやりとなんてしていられない。
怜士は、のっそりと体を起こした。足を床に着け、ぐっと力を入れて立ち上がる。
「お?何や、どうした」
「帰る」
「あ?」
そう今は、力を蓄える時期。
いつか惚れた女を手に入れるため、自分を磨くための時間。
玉屋ーと和香が叫べば、鍵屋ーと美和も叫ぶ。女が三人寄ればかしましいと言うのだから、四人なら尚更だ。「今の見た、色が変わったよ」とか、「あのちっちゃいの可愛いー」とか、「すごい」とか、「きれい」とか「きれい」とか「きれい」とか。要するに大騒ぎだ。
何だか体がずっしりと重い気がして、キャーキャーと花火にはしゃいでいる女の子たちから少し離れて和馬は、川原に降りる階段の一番下の段に座った。
最近は土地の有効活用とかで、少しでも幅があれば川原なんて場所にさえ何か作られたりする。ここもその例に漏れず、テニスコートが四面と、後はストリートバスケ用のバスケットゴールがある。
市民センターで申し込めば無料で貸してくれるらしい、利用したことはないけれど。
「やっぱり金色だけのが一番きれいじゃない?」
「えー、青いのがいいよ!」
「消える時にキラキラッて光るのがいいよ、絶対きれい」
準備の都合なのだろう、花火は数発続けてあがると、その後に少し間があく。
地元商店街や企業の協賛により行われている花火大会だから、花火の数はそんなに多くない。有名な花火大会のように夜空を覆うほどたくさんの花火が立て続けにあがる訳ではないのだ。
花火の打ち上げが一旦止まると、すかさず女の子たちは花火談義を始める。それを聞くとはなしに聞きながら和馬は、テニスコートの方に目をやった。
最近出来たらしいきれいなコートだ。今度、みんなで遊んでもいいかなと思った。
「仕掛け花火とかないのかな?」
「ないんじゃない、こんなしょぼい花火大会で」
「しょぼいよねぇ、もっと続けてバンバンバンてあがらないかな?」
「そしたら、十分くらいで終わっちゃうんじゃないの?」
「あー、そうかも」
などと、スポンサーが聞いたら泣きそうなことを言っている。
まあ、周りには人影がないから、ここでならどんなに声高に騒いでも誰の迷惑にもならないだろう。こんなところまで来たかいがあったというものだ、これなら四人まとめて楽に面倒が見れる。
予想通りと言うか何と言うか、夜店で遊んでいる間は和馬は少しも気が抜けなかった。ちょっと目を離したら誰かが行方不明になったり騒ぎを起こしたりだったのだ。
希羅梨が誰かにお尻を撫でられたとギャアーと派手な悲鳴をあげたら、向こうでは和香が同じくらいの年頃の男の子相手にぶつかったぶつからないで喧嘩をしている。おまけに春樹と一緒にお面を選んでいる美和の後ろには、小太りの男がじっと立っていたりする。
とてもではないが和馬ひとりでは、全く手に負えなかった。だから、花火を見るには遠くなるのは覚悟の上で和馬は女の子たちをここまで連れて来たのだ。
人が大勢いるところでは必ず騒ぎを起こすから、引き離した訳だ。振り向けば、市外に抜ける道に続く橋がすぐ背後に影を落としている。花火見物のためにブレーキを踏むから、橋の上は局部的な大渋滞になっていた。
「あ、あがった!」
「うわ、今度の派手だよ」
また花火があがって、女の子たちの歓声もあがる。どこにあんなパワーがあるんだと思いながら和馬は、キャーキャーと飛び跳ねながら手を叩いている女の子たちを苦笑いを浮かべて見ていた。
美和と手を握り合って、希羅梨が笑っていた。希羅梨がぴょんと跳ねるたび、長い髪がふわりと広がる。
「……あいつ、アレをどうあしらってんだろ」
あいつとは、雪都のことだ。
そしてアレとは、希羅梨のことだ。
あんなにきゃらきゃらと笑う彼女と、あの無愛想な男がどうつき合っているのか気になる。
雪都は感情を表に出すことがほとんどなく、希羅梨とはまったく正反対のタイプだ。だからこそ、雪都が希羅梨とつき合うと言い出した時には本気で驚いたものだ。
絶対に合わないだろうと思った。だけどあの二人は、波風ひとつ立つ様子もなくもう一年以上も続いている。
「ま、わからないでもないか……」
男として、希羅梨を選んだ雪都の気持ちはわからないでもない。明るい声をあげて笑う希羅梨は、何と言うかつまりその……確かに可愛い。タイプが正反対だろうが何だろうが彼女にしたいという気持ちはわかる、確かに。
夜のせいか花火のせいか、それともピンクの浴衣のせいか、和馬の半分すがめた目に希羅梨は、とても可愛く映っていた。
花火があがるたびに、わざと大げさに騒いだ。美和と手を取り合って希羅梨は、きれい、きれいと何度も繰り返した。
本当に、きれいだと思った。
夜空を彩る、金色の花。
彼と一緒に見たこの花火を一生忘れないように、希羅梨は全てを目に焼きつけようとしていた。
友達っていいポジションだよね、なんて花火を見ながら思った。彼の特別になりたいとずっと思って来たけれど、だけど花火を見ていたらもういいやと思えた。
恋人よりも、友達がいい。『LOVE』よりも『LIKE』を取る、その方がいいに決まっている。
恋が決して幸せなことばかりじゃないと、希羅梨はもう気づいてしまった。
恋は苦しい、そして汚い。
自分にこんなひどい一面があったのかと知ること、それが恋をするということなのかもしれない。
和馬とセスナ、あの仲のいい恋人同士が別れてしまえばいいと思った。何度も思ってしまった。
彼が彼女を好きなことは知っているのに、彼女が彼を好きなことも知っているのに。それでも、二人の間にひび割れがないかと探した。
今日はずっと、彼は希羅梨を守ってくれた。本当にしっかりと守ってくれた。守られて嬉しいと思う反面、あんなに優しい人の不幸を願っている自分があまりにあさましく感じた。
きれいな花火を見ながら希羅梨は、こんなことはもうやめようと思った。
もうたくさんだと、そう思った。
振り向けば彼がいる、希羅梨の大好きな人がそこに座っている。
だから振り向かない、もう絶対に振り向かない。
阿部くん、阿部くん、阿部くん。
もう終わりにする、体のどこか奥底にたまった黒い気持ちを夜空に向かって解き放つ。
阿部くん、さようなら。飛鳥井さんと幸せになってね。
もう諦める、もう好きじゃない。
好きじゃなくなるよう、頑張る。
「わあ、大きい!」
夜空に咲く、大輪の花。その花が滲んでよく見えない。
「きれいだね」
そう言うと希羅梨は、誰にも気づかれないようにそっと涙を指先で拭った。
帰る、そう言って走り出したけれど美雨はすぐに捕まってしまった。慣れない浴衣と下駄と、そして人の多さが敗因だろう。
肩を掴まれ、ぐっと引かれた。無理矢理に振り向かされたら、すぐそこに彼の彼の目があった。
一瞬だけ至近距離で見つめ合って、すぐにうつむいた。体中が心臓になったみたいに、ドキドキとうるさかった。
「花火、まだ終わってないぞ」
「うん、でも……帰る」
「阿久津なら、大丈夫だろ。俺とお前が二人だけで来たなんて思ってないって」
「そんなの……」
そんなことを気にして帰ると言ったんじゃない、そう言おうと思ったのに、言葉はうまく出てくれなかった。
「でも、帰る」
「わかった、送る」
雪都は、言葉と一緒に息を吐き出した。その口調が呆れているように聞こえて、怒らせてしまったかと、美雨は慌てて顔をあげた。
「大丈夫だから、んな泣きそうな顔すんな」
だけど彼は、怒るどころかそう言って笑ってくれた。いつもいつも不機嫌そうな顔ばかりしている彼の思いがけない笑顔に驚くよりも美雨は、「ああ、彼は知っているんだ」と思った。そして何故か、足元がぐらぐらと揺れはじめた気がした。
永沢くんは、私が阿久津先生に憧れてることを知ってるんだ……。
いつだったかあゆみに、バレバレだよと笑われたことがある。それで隠してるつもりなのと言われた。美雨が阿久津先生を好きなことなんてみんな知ってるんじゃないなんて、とんでもないことを言われた。
だけど、自覚はあったので言い返せなかった。
いつだって、目が勝手に姿を追ってしまう。話しかけられれば舞い上がってしまって、声は上ずるし顔は赤くなるし、傍から見ていれば確かにバレバレだろう。
「まあ、今ならバスがすいてるかもな。花火が終わってからだと、すげえ人でなかなか乗れねえし」
じゃあ帰るかと、歩きだした彼はもう美雨と手を繋いではくれなかった。さっきまで繋いでいたのも優しさなら、今繋がないのも彼の優しさだ。気づけば彼の優しさに、美雨はいつの間にか甘えてしまっていた。
ただの幼馴染が週に二回も予備校まで迎えに来てくれるなんて、普通では有り得ないことだろう。
もうこれ以上、甘えてはいけない。
妹じゃない、もちろん彼女でもない。
美雨は彼にとって、ただの幼馴だ。もう、甘えられない。
姫宮さんもいたよと、阿久津は言った。雪都の彼女が来ているのに、どうして自分が彼を独り占めできるだろうか。
彼が好きなのは、彼女なのだから。
明るくてとても可愛い、長い髪のきれいな女の子。
もう甘えられない、そう思った。予備校に迎えに来てもらうのも終わりにしなくてはならない。
美雨は、雪都の着ているタンガリーシャツの背中を見つめて、どう言えばいいのかと言葉を探した。
「永沢くん、あのね……」
花火を見るためにみんなが川原に集まっているから、あんなに賑わっていたのが嘘のように夜店が並んでいる参道は閑散としていた。金魚すくいの屋台のおじさんが、暇そうにタバコを吸っている。
「永沢くん、あのね……予備校、もう迎えに来てくれなくていいよ」
「あ?」
「あのね、えっと、や、やめることにしたんだ、あの予備校」
「こんな時期にやめるのか?」
「あ、えっと」
成績があまり伸びないから家庭教師を頼むことにしたんだと、口から出まかせの言い訳をしたら雪都は信じたのか信じなかったのか、ただ「ふーん」と曖昧に頷いた。
「だからね、もう迎えに来てくれなくてもいいの。今までありがとう、晴音ちゃんにもお礼を言っておいてね」
わかったと、雪都は頷いた。とりあえずは納得してくれたようで、美雨はホッと胸を撫で下ろした。
本当に予備校は辞めよう。お父さんとお母さんに頼んで、家庭教師の先生を探してもらおう。
そうすれば、彼に嘘をついたことにならない。
鳥居をくぐって、石段を降りて行く雪都の背中に美雨はぺこりと頭をさげた。優しくしてくれてありがとうと、そんな想いを込めて頭をさげた。
もう少し早くこの気持ちと向き合っていれば、何かが違っていただろうか。
もしも、彼女があの男と出会う前に気づけていれば。
バスに乗っている間も、バス停から家まで歩いている間も、もう彼女は一言も口をきいてくれなかった。雪都は、心臓が重く冷たくなっていくのを感じていた。
不運だったと言えば、確かに不運だったのだろう。あれだけの人出だったのに、何もわざわざ彼女が憧れている男と出くわすこともないだろうに。もしも運命の神様に会うことがあったらタコ殴りにしてやると心に誓って、雪都はとりあえず今は何も考えない努力をしていた。
最後まで見れなかった花火のことや、まだ手のひらに残っている彼女のぬくもりや、予備校にもう迎えに来なくていいと言われたことなどなど、とりあえず今は考えない。
ポーカーフェイスには自信があるが、だけど突っ走らない自信はない。ついさっき、彼女の手を掴んで離せなかったという前科があるだけに、何で阿久津なんだよとか、何で俺じゃ駄目なんだよと叫び出してしまいそうで恐い。
何だかもう、自分で自分が信じられない。
抱きしめたい、キスしたい、彼女を丸ごと手に入れたい。
無理矢理だろうが何だろうが手に入れたくなる、そうならないために今は何も考えない。
小学生の時、彼女を傷つけてしまった。雪都が直接手をくだした訳ではないけれど、原因はあきらかに雪都だった
美雨に記憶が混乱するほどの心の傷を負わせたことは、そのまま雪都の傷になった。トラウマは、克服するのに長い時間がかかる。雪都が逃げ回っているうちに、美雨はあの男と出会ってしまった。
何も考えるな、今は何も考えるなと雪都は自分を必死で縛っていた。バスに乗っている間も、バス停から美雨の家まで歩いている間もずっと。
後悔なんて、とっくにしている。誰よりも彼女の近くにいたのは自分なのに、愚かにも雪都はその大切な場所を放棄してしまった。
美雨をこれ以上傷つけたくないなんて言い訳だ、雪都はただ逃げていただけだ。
弱さの代償は、手痛いしっぺ返しだった。
こんなんアリかよと思う、運命の神様出て来いと思う。
「……じゃあ、また学校でね」
「ああ」
「今日はありがとう、楽しかった」
「ああ」
今ここで好きだと言ったらどうなるのだろう?お前が好きなんだとぶちまけたら、過ぎ去った時間の取り返しがつくだろうか。
「えっと……おやすみなさい」
「おやすみ」
だけど、言えなくて。
雪都は、美雨が家に入ってからもしばらく閉まった扉を見ていた。色んな想いが体の中で渦を巻いていて、どうにも収拾できなかった。
扉は閉まってしまった、もう開くことはない。
自分自身の想いに吹き飛ばされそうになるのを、雪都はぐっと耐える。固く拳を握って、彼女を困らせることだけはしない、しちゃいけないんだと必死で自分に言い聞かせていた。