125 夜空に咲く花
繋いだ手が熱かった。まるで体中の熱が全部手のひらに集中しているようで恥ずかしくて、美雨は放して欲しいと思った。
だけど、彼は手を放してくれなかった。ずっと繋いだままだった。
神社のすぐ裏にある川土手にはすでにたくさんの人がいて、ビニールシートを敷いて場所取りをしていた。
雪都は、何も言わずに土手の一番高い所で立ち止まった。
広い川土手でこのあたりが特に人が集まっているところを見ると、どうやらここが花火がよく見えるポイントらしかった。ビニールシートなんてもちろん用意していないから、立ったままで花火が始まるのを待った。
彼は、手を放してくれなかった。
花火を花火を見る場所に着いたら放してくれるのかと美雨は思っていたのだけれど、だけど放してくれなかった。
空梅雨だったせいか、水の少ない川の方からぬるい風が吹いていた。
美雨は、雪都の影に隠れるように顔を伏せていた。ただ、手を繋いでいるのがどうしようもなくドキドキして。
放してと、言ってみたけれど蚊の鳴くような小さな声しか出なかった。
小さすぎて、どうやら彼の耳には届かなかったらしい。
雪都は、黙って夜空を見上げていた。花火を待っているその横顔を美雨は、伏せていた顔を少しだけ上げて盗み見るように見た。
グレーがかったきれいな目は、子供の頃と同じだった。
濁りのない、澄んだ宝石のような瞳。
ドキドキした、くらくらした。
ここにいる男の子は確かに美雨の幼馴染の雪くんだけど、だけど違うと思った。全然違う、彼は雪くんだけどもう雪くんじゃない。
永沢雪都という、高校三年生の男の子だ。学校中の女の子にキャーキャー言われてしまうような、格好いい男の子。
子供の頃みたいに手を繋いでも、美雨はもう子供の頃のように平気ではいられない。彼は平気なのだろうか、何とも思わずに美雨の手を握っているのだろうか。
意識しちゃってる、私の方が変なのかな?
花火が始まると身動きが取れなくなるくらい混むんだと、彼は言っていた。現に、僅かな時間で雪都と美雨が立っているあたりにはどんどんと人が集まって来て、隙間がなくなりつつある。
もっとぎゅうぎゅう詰めになったら、小柄な美雨なんて人に押されてしまうかもしれない。その時のために、この手は繋がれたままなのだろうか。もしも美雨が押されてよろけても、こうしてしっかりと手を繋いでいれば彼が支えてくれる。
要するに、美雨は晴音と同じ扱いなのではないだろうか。きっと彼は、晴音を連れて来た時にもこうして手を繋ぐのだろう。
……私は、五歳じゃないんだけどな。
妹でもない、ましてや恋人でもない。
幼馴染でクラスメート、それだけだ。妹でも彼女でもないのに、どうして手を繋いで花火を見に来たりしているんだろう?こんな、まるでデートみたいな……。
もうすぐ始まるぞと、彼が言ったような気がした。ぼんやりと美雨が雪都の方を見た時ドンと、地響きのような音が聞こえたかと思うとパッと辺りが一瞬だけ明るくなった。
夜空に、大輪の炎の花が咲く。
最初の一輪が金色の光を散らしたその上に二輪目が開いた、今度は赤い花だ。
「きれいだろ?」
「……うん」
よく見えるポイントだけあって、花火は美雨の真正面に大きく降るように見えた。ドン、ドンという音と共に、次から次へと花開く。漆黒の夜空をキャンバスに、描き出される花、花、花。
「きれい……」
まるで、夢を見ているような気がした。ドキドキ、ふわふわ、夢の中を漂っているような錯覚。
繋いだ手が熱かった。恥ずかしくて、放して欲しくて、だけど放して欲しくなかった。
花が咲く、夜空に炎の花がはじける。
「あれぇ、珍しい組み合わせやな」
辺りはガヤガヤと騒がしかったのに、何故かその声はストレートに二人に届いた。聞き覚えのある声に、雪都と美雨は二人揃って反射的に振り向いた。
「キミ、涼華のクラスの永沢くんやろ。何や、彼女変えたん?」
土手の一番高いところに立っていたので、二人の後ろに出来た人垣は薄かった。三層程の人垣の後ろは細い道になっている、その舗装されていない道の先に腕にエンジの腕章をつけた狐が一匹立っていた。
「もしかして、みんなとはぐれたのかな?阿部くんたち、向こうの方にいたよ」
そして、狐の隣で穏やかに微笑んでいた男を美雨は呆然と見つめた。
咄嗟に事態が飲み込めない、どうしてこんなところにいるのかなんて、そんなことさえ考えられない。
雪都がそっと手を放したことにも、美雨は気づかなかった。
「どのあたりにいました?」
そう言いながら雪都は、二人の教師が立っている方へ歩きだした。後ろにいた人にすみませんと断ってから、間をすり抜ける。
「かなり向こうの方で会ったよ、橋の方まで行くって言っていた」
「橋?あんなとこからじゃ、花火見えないだろうに」
「そうでもないらしよ、遠いから迫力はないだろうけどね。遠景を楽しむって感じかな」
「ま、あの辺りならすいてるよな」
中森と呼ばれて、美雨はハッと我に返った。凍り付いたような足をぎくしゃくと動かし、雪都がしたようにすみませんと言いながら人垣を抜けて道まで出る。
「阿部たち、橋の方にいるってさ。どうする、行くか?」
「え?」
雪都が言っている意味がわからずに、美雨はその顔をまじまじと見つめてしまった。雪都が目配せをして見せたが、美雨にはその意味もすぐにはわからない。
「阿部くんと姫宮さん、それにB組の尾崎さんもいたよ。あと、小学生くらいの女の子たちもいたけど」
「ああ、阿部の妹ですよ。双子」
「あの子たち、双子なの?」
「似てないでしょう」
「似てなかったね。いや、暗かったからちゃんと顔を見た訳ではないんだけどね」
頭の中がぐちゃぐちゃで、何が何やらさっぱりわからなかったが、さすがの美雨でも雪都が一芝居打っていることは理解できた。
みんなで一緒に来たけれど、雪都と美雨だけはぐれてしまったという設定らしい。それはそうだろう、つき合ってもいない男と女が二人だけで祭りに来るのなんて本来おかしいことなのだ。
「先生たちは、見回りなんですか?」
「そうなんよ、可哀想やろ」
手を目尻に当てて、えーんと泣き真似をする彦一に阿久津が笑った。雪都も、珍しく笑っている。
「じゃあ、橋の方に行ってみます」
「永沢くん、九時には帰るんだよ。テスト前だからね、時間厳守。みんなにもそう伝えて」
「はい。行くぞ、中森」
先に歩きだした雪都の後を美雨は慌てて追いかけた。歩きながら振り向くとまだ阿久津がこちらを見ていたので、ペコリと頭をさげてから、逃げるように足を速める。
男の子と二人きりで祭りに来ていたところを憧れの人に見られるというとんでもない事態なのに、だけど何故か美雨の気持ちは冷えていた。先生は、姫宮さんがいたよと言った。彼の彼女も来ている、そのことだけが美雨の中のどこかに引っかかった。
「永沢くん……」
前を歩く、彼の両手は今はジーンズのポケットに突っ込まれている。ほんのつい数分前まで、美雨の手を握ってくれていた手だ。
「永沢くん、私……帰るから」
花火はまだ続いていた。ドーン、ドーンと音を轟かせながら、炎の花は夜空を明るく彩っていた。