123 とけちゃうぞ
ちょっとヘタレさんかも、というのが永沢晴音(五歳)の兄に対する評価だ。
と言うのも最近、兄の彼女であるみゅうちゃんを予備校までよく迎えに行くのだが、その帰り道で兄は彼女とほとんど喋らないからだ。晴音に彼女の相手を任せてしまって、自分は後から黙ってついて来るだけ。あれって彼女的にはどうなんだろう、つまらない男に見えるんじゃないのかな。
デートの時なら違うのかもと思うけれど、そもそもデートしている様子がない。平日の兄は、学校帰りに晴音を保育園まで迎えに来てくれるから放課後デートする暇なんてないだろうし、休日の兄は、大抵家で勉強している。
学校では仲良くしてるのかもしれないけれど、晴音は「うーん?」と思うのだ。「それだけ?」と思う。
晴音なら、好きな人といっぱい一緒にいたい。
いっぱいお喋りもしたい、いっぱいいっぱいしたい。
よくあんなんでみゅうちゃんが怒らないなと、晴音は思う。
兄が照れ屋さんなのは知っているけれど、いくら何でもあれはどうかと思う。みゅうちゃんは優しいから今は我慢してくれてるけど、だけどその内ふられちゃうぞと思うのだ。
「晴音、カキ氷いるか?カキ氷」
「いる」
「そうかそうか、何味だ?」
「いちご」
「そうかそうか」
「ちょっと、あなた」
可愛い娘を肩車して、でへーとだらしなく鼻の下を伸ばしている秋雪を十和子は軽く睨んだ。
晴音の右手には綿菓子の袋、左手にはりんご飴とさっき釣ったヨーヨーがそれぞれ握られ、頭の上には人気アニメのキャラクターのお面がのっかっている。
これでは、いくら何でも甘やかし過ぎだろう。欲しがるだけ何でも与えていては、我慢するということを晴音は覚えられない。
「もう綿菓子とりんご飴を買ったでしょう?かき氷は今度にしなさい」
「えー」
「えー」
ちなみにこの「えー」、ひとつ目は晴音だが、ふたつ目は秋雪だったりする。眉をハの字にして、晴音より不満そうな顔で口を尖らせる。
「あなた……」
十和子は、口の端をピクピクッとぴくつかせた。まったくこの夫は、どこまで子供に甘いのか。
「いいじゃないか、十和子。祭りなんて年に一度のことだし、今年は運よく急患がなかったからこうして連れて来てやれたけれど、来年もそうだとは限らない。現に去年だって来れなかったじゃないか、雪都に任せてしまっただろう?たまのことなんだからいいじゃないか、好きなだけ遊ばせてやろう」
そう言いながら、秋雪は晴音を肩から下ろした。足が地面に着いた途端、晴音はカキ氷の屋台めがけて一目散に駆け出す。
「甘やかし過ぎです」
「いいじゃないか、これくらい」
「だけど、我侭な子になってしまいますよ」
「雪都も晴音と同じように甘やかして育てたけど、我侭になんてならなかったじゃないか。あんないい息子、ちょっといないだろ?大丈夫、晴音だっていい娘だ」
「雪都と晴音では、性格がまったく違いますよ」
「違わないさ、二人とも俺たちの子供だ」
お父さん、早くーという晴音の呼び声に、ほーいと秋雪がいそいそと答える。デレデレに甘い顔だ、とても患者には見せられないような。
ハアッと短く息を吐いて、仕方ないわねと十和子は苦笑いした。確かに、晴音と遊んでやるのは久しぶりのことだ。何も文句を言わないのをいいことに、いつも雪都に任せてしまっている。
躾のことなんて言う資格なんて自分にはないのかもしれないと、十和子は苦く笑う。晴音を育てているのは母親である十和子ではなく、間違いなく兄の雪都だろう。高校生の男の子が普通、あんなに妹の面倒を見てくれるものだろうか。
夫に言われるまでもなく、本当にいい息子だと思う。自慢の息子だ。
「……あら」
道を覆うほどの人ごみの中に、一際めだつ薄茶色の髪。息子を見つけて十和子は、雪都と呼びかけようとした声を寸でで飲み込んだ。
「可愛いなんて言ったら怒られちゃうわね、きっと」
背の高い雪都は人ごみの中に在っても頭ひとつ出ているからすぐにわかるが、一緒にいる彼女の方は小柄だからここからではよく見えない。人と人の隙間にちらちらと見える、紺色の浴衣。幼い頃の面影そのままに成長した少女が、十和子の自慢の息子の傍らに寄り添っていた。
でも、なんて可愛いカップルでしょう。
人と人の隙間に見え隠れしながら通りを横切って行く二人は、どうやらしっかりと手を繋いでいるようだ。一瞬だけちらりと、人が途切れた時に繋いでいる手をばっちり目撃してしまった。
小さい頃と同じ!
こみ上げて来た笑いを抑えることなく、十和子は一人でくすくすと笑った。
保育園の頃も、あの二人はあんな風によく手を繋いで歩いていた。仲良しねなんて十和子が言うと、雪都は決まって「美雨がすぐに転ぶから、仕方ないんだよ」なんて生意気な顔で答えたものだ。
もしも今、仲良しねとからかってやったら雪都は何と答えるだろうか?
やはり、美雨が転ぶから仕方ないと答えるだろうか。
まあ、見なかったことにしてあげましょうか。
からかってやりたい気持ちもあるけれど、デリケートな年頃だからそっとしておいてあげましょうと決めて十和子は、段々遠くなって行く息子とその彼女に小さく手を振った。仲良くしなさいよなんて、どうやら言う必要はないようだ。
赤いいちごシロップがたっぷりかかったカキ氷を秋雪は、はいっと晴音に差し出した。晴音は両手でそれを受け取ったものの、心配そうに後ろを振り返った。
「晴音、どうした?」
「食べてもお母さん、怒らない?」
「大丈夫だ、心配しないで食べなさい」
「私は、お父さんのことを心配してるの。リコンしないでね」
「は、晴音……」
いや、まさか、そんな、かき氷ごときでと思いながら秋雪がそっと妻の方を伺うと、十和子は何故か一人でくすくすと笑っていた。ほんのついさっきまで小言を言っていたのに、打って変わったあの機嫌のよさはどうしたのだろう?
「お母さんにもカキ氷を買ってあげたらいいと思う」
「おお、それは名案だ!」
とりあえず、怒ってはないようだ。そこにすかさずカキ氷を持って行けば、すっかりご機嫌になるのではないだろうか。
秋雪はカキ氷を売っている中年の男に、もうひとつ頼むと声をかけた。
「えっと、何味がいいのかな……晴音、お母さんは何味が好きだ?」
「いちご」
「そうか、いちごか!」
いちごでと、注文している父を見上げて晴音はハァーと溜息をつく。
「お父さんも、がんばれ」
「……も?」
娘の発言にひっかかりを感じた秋雪が晴音を見ると、晴音はシャクシャクとカキ氷を食べていた。秋雪が問いただそうかと思った時、「へいっ、おまたせ!」という、威勢のいい声と共にいちご氷がぬっと秋雪の眼前に差し出された。
「それ、早くお母さんに持って行ったら?」
「あ、ああ」
怪訝な顔をしながらもとりあえずカキ氷を母に渡しに行く父の後ろ姿を見ながら、晴音はシャクシャクと冷たいカキ氷を食べていた。シャクシャクシャクシャクと、食べていた。
かなりヘタレさんだよね、というのが永沢晴音(五歳)の父に対する評価だ。
まったく父といい兄といい、どうしてこう永沢家の男どもは女の扱いを心得ていないのか。
世話が焼けるったらありゃしないと、晴音は思う。女心は移ろいやすく、ちょっとした切欠で180度変わる。
それは、恋愛中でも結婚してても同じなのだ。
恋なんて不確かなものだ、まるでこのカキ氷のように。
甘い味に安心してたら、いつの間にか跡形もなく溶けてなくなっちゃってても知らないからと、晴音は思うのだ。