122 優しい関係
断られると思った。
二人で祭りに行こうと言った時、彼女が困った顔をしたから雪都はてっきり断られるのだと思ったのだ。
ごめんなさいと言われたら、あっさり引くつもりだった。無理強いする気はない、全然ない。大体、誘うつもりではなかったのだ。
晴音が親と祭りに行っちまったからごめんなと、電話で済むことをわざわざ家まで言いに行ったのは、もしかしたら彼女の浴衣姿を一目でも見られるかもなんて下心だった。ちょっと見てみたい、それだけだったのに思わず二人で祭りに行こうと誘ってしまったのは欲が出たからだろう。
もっと見たい、見ていたい。
そう思ってしまうほど、浴衣を着た彼女は可愛かった。
玄関のドアを開けた彼女を見た瞬間、しまったと思った、いい加減にしとけよと思った。やっぱり電話にすればよかったと思ったが、もちろん後悔先に立たずだった。
二人で行こうと、気づけば言葉が口から飛び出していた。だけど、困った顔をされた。それで、さらにしまったと思った。
だけど、これも後悔先に立たずだ。覆水盆に返らず、とも言う。一度出してしまった言葉は回収不可能で、だけど回収したいとも思わなかった。
紺色の浴衣を着た美雨が、上目使いで雪都を見ていた。可愛いと思った、本気でいい加減にして欲しかった。生来のポーカーフェイスのおかげで悟られはしなかっただろうが、これが結構な衝撃だったのだ。
心臓がこっそり全力疾走していた、断られると思うと焦った、何と言えば了承してくれるかと真剣に考えた。祭りに行かずに彼女は、このまま着替えてしまうのだろうか。せっかくこんなに似合っているのに。
だから美雨ががこくんと頷いた時、雪都は思わず拳を握ってしまった。手に汗握るとは、まさにこのことだろう。慣用句としての使い方は根本的に間違っている気がするが、それどころではないのでこの場合は気にしないことにする。
「うわぁ、すごい人だね」
「夕日町の七夕祭りは、有名だからな」
「そうなの?」
「来たことないのか?」
「実はね、お祭りってあまり来たことないの。子供の頃は、何度かお父さんとお母さんが連れてってくれたんだけどね。最近は全然ダメ、家にもほとんど帰って来ないもん。友達と行くにも、澪ちゃんは人ごみが苦手だし、あゆみちゃんは田中くんと行きたいだろうから誘えないんだ」
「お前んとこの親、忙し過ぎだよな。うちも大概だけど、お前んとこほどじゃないぞ」
「うん、そうだよね。下手したら何週間も顔見なかったりするよ、新作の発表前とか」
「寂しくないのか?」
「もう慣れちゃったよ、家の中に誰かいる方が落ち着かない」
ふーんと相槌を打ってから、雪都はさりげなく辺りをさっと見回した。連中ならきっと目立っているだろうから、いたらすぐにわかると思うのだが。
「永沢くんは、晴音ちゃんがいないと落ち着かないんでしょう?」
「あ?」
「さっきから、ずっと晴音ちゃんを探してる」
「……」
雪都がむっと黙り込んだので、図星だったと思ったのか美雨がくすくすと笑い出した。雪都が気にしているのは晴音ではなく、希羅梨と一緒に来ている筈の和馬たちなのだが、そのあたりのことを説明する訳にはいかない。
「いいお兄ちゃんだね」
「違うっつーに」
それでも美雨は、くすくすと笑う。美雨が動くたびに、髪につけた髪飾りの鈴がチリンと小さな音をたてた。
「それよかお前、せっかく来たのに何もしないのか?金魚すくいとか」
「あー、そうだねぇ」
美雨の家を出てからずっと、バスに乗っている間も神社に着いてからも、雪都は当たり障りのない話題を探しては美雨に話かけていた。普段、必要最低限のことしか喋らない雪都にしてみれば、実に珍しい努力をしていることになる。
その努力が実ったのか、最初は固い顔をしていた美雨が今ではすっかり打ちとけていた。雪都の他愛ない話に笑ってくれる、それがもうどうすりゃいいんだってくらいに可愛い。
両側に夜店の並ぶ石畳の参道を、祭りを楽しむ人の波に乗って雪都は美雨と並んでゆっくりと進んだ。小柄な彼女が人に押されて自分から離れてしまわないように気をつけながら、美雨と二人で来ているところを見られる訳にはいかない和馬たちを警戒して辺りを見回しつつ、その上で会話を繋ぐ。
雪都は、変なところでものすごく頑張っていた。晴音さえいればこんな努力はいらないのに、少なくとも会話方面は晴音にまかせっきりに出来るのになんて思うが、それはそれ、これはこれだ。
好きな女の子と二人きりなことを、喜ばない男なんていない。
今この瞬間の彼女を独り占めしてると思うだけで嬉しい、実にささやかな喜びではあるけれど。
「金魚すくいはいいや。夜店の金魚って、すぐに死んじゃうじゃない?」
「ああ、そうだな」
「だからいい、お祭りって何だか見てるだけで楽しいし」
美雨が動くたび、チリンチリンと鈴が鳴る。小さな鈴の音が聞こえる程、美雨は雪都の近くにいた。
……阿久津が好きなのか?
唐突に、雪都はそんなことを訊いてみたくなった。訊くまでもなく答えは知っている筈なのに、だけど訊いてみたくなった。
本当に阿久津が好きなのか、本当の本気で好きなのか?
訊いてみたい……。
欲が出る、こんな風に彼女を近くに感じていると錯覚してしまう。でも訊けない、答えを知っているだけに訊くことが出来ない。
臆病な自分に嫌気が差すが、このひと時を壊す勇気が雪都にはなかった。
「じゃあ、花火の場所取りに行くか?」
「場所取り?」
「ああ、見えやすいポイントがあんだよ」
「永沢くん、詳しいね」
「ほぼ毎年来てっからな」
「晴音ちゃん連れて?」
「晴音連れて」
「いいお兄ちゃんだねぇ」
「だから、それはもういいっつーの」
私も永沢くんみたいなお兄ちゃんが欲しかったなぁなんて言う美雨に、妹なんかになられてたまるかと雪都は思うが、もちろんこれも言わない。どうやらほんの僅かも雪都を男として意識してないらしい彼女を少しばかりの恨めしい気持ちを込めて軽く睨むと、それをどう取ったのか美雨はプーッと吹き出した。
「……何を笑う?」
「や、だって、私のよく知っている永沢くんは一人っ子のイメージが強いから、そんな風にお兄ちゃんしてるのが新鮮て言うか……んー、何て言えばいいんだろ。よくわかんないや」
「新鮮とか言われてもな、これでも晴音の兄歴五年だからな」
「そうなんだよね、五年かぁ。晴音ちゃんは、五年も前に生まれたんだよね。でも私、永沢くんに妹がいるなんてつい最近まで知らなかったんだよね……どうして私たち、こんなに話さなくなったんだろうね?小さい頃は、ずっと一緒だったよね」
「……」
「どうして話さなくなったのか、永沢くんは憶えてる?」
真っ直ぐに見つめてくる眼差しに、雪都は思わず顔を背けてしまった。あの忌まわしい夜のことを、彼女は何も憶えていない。
「永沢くん?」
「男と女なんだから、自然と離れるのが当たり前なんだと思うぞ。お前、女の友達とばっか遊ぶようになったし」
「そうだったっけ……」
んーと考え込んだ美雨に、雪都は思い出すな、思い出すなと呪いをかけた。せっかく忘れているのだから、わざわざ思い出すことはない。恐かったことなんて、忘れていればいいんだ。
大切な、誰よりも何よりも大切な女の子。
ただ守りたいと必死に思っていた幼かった頃も、この気持ちが恋なのだと自覚した今も、美雨が雪都にとって大切な女の子だということは変わらない。
幸せになって欲しい、誰よりも。
例え美雨を幸せにする男が雪都でなくても、それでかまわないと思う。美雨さえ幸せならば、それでいい。彼女が好きな男がその手を取るなら、それでかまわないと雪都は思う……いや、思っていた。そして今は、必死で思おうとしている。このまま何も言わずにこの恋を封印すれば、幼馴染という名の優しい関係は続くだろうから。
「中森、こっちだ」
「え?」
不意をついた、というところだろうか。考え込んでいた美雨の手を、雪都はいきなり握って歩き出した。人波を斜めに突っ切る。
「な、永沢くん?」
「早く行かねえと、いい場所取れねないだよ」
「場所?」
「花火、始まるとすげえ人で身動き取れなくなるからな」
美雨の手を握ったままで、雪都はずんずんと歩いた。振り返らなかった、振り返れなかった。もう子供ではない、いくら幼馴染とは言ってもつき合ってもない男と女は普通、手なんて繋がないだろう。
それでも、雪都は美雨の手を離さなかった。美雨が待って、待ってと何度も言っているのが聞こえたけれど、振り向けなかった。
「永沢くん、ちょっと待って!手、手を……」
放してと言われても雪都は放すつもりはなかったが結局、美雨は放せとは言わなかった。ただ、人を掻き分けついて来るのが必死なようで。
「待ってよ、永沢くん。ねえ、待って」
待ってやる余裕は、もう雪都にはない。まるで坂の天辺にでも立っているような気分だった。
ほんの少しでも背中を押されたら、きっと抱きしめてしまう。嫌がられても泣き叫ばれても、放してやれなくなってしまいそうで恐い。
「永沢くん!待って、ちょっと待ってよ」
このまま何も言わずにこの恋を封印すれば、幼馴染という名の優しい関係は続く。
彼女が誰を想っているか、雪都は知っていた。それが自分ではないことを、嫌というほど知っていた。
困らせるつもりはない、誰よりも何よりも大切な女の子。幼馴染のままでいい、彼女が幸せならそれでいいと思う。
「永沢くん!ねえ、永沢くん」
大切な、本当に大切な女の子。
だけど彼女を傷つけるのは他の誰でもなく、自分かもしれないと雪都は思った。
七夕祭りの夜、雪都は美雨の手を握って歩いていた。
全てを振り切るように、ただ歩いていた。