121 星の名前
どちらが幸せなのだろうか?
愛する人に愛されたけれども引き離され、年に一度しか会えない天上の姫と、愛する人のすぐ傍にいられるけれど振り向いてもらえない地上の姫。
どちらがより幸せで、どちらがより不幸なのだろうか。
希羅梨という名前は、兄がつけてくれたものだと聞いている。希羅梨が生まれた日の夜、天の川がきれいに見えたのだそうだ。
ふと思いついて海人は、生まれたばかりの妹を、『キラリちゃん』と呼んでみた。海人の目に希羅梨は、まるでキラキラと輝く星のように見えたからだ。
それを耳にした親が、他の名前を考えるのが面倒だと適当な字をあててそのまま名づけたので、希羅梨はこんなにきれいな、だけど皮肉な名前を得ることになった。
「はい、希羅梨の分」
「ホントにおごってもらっちゃっていいの?」
「いいのいいの、女に二言はないの」
「じゃあ、いただきます」
カキ氷とたこ焼きを賭けた和香と春樹の金魚すくい勝負は、三匹差で春樹が負けるという結果に終わった。もっとも、後半春樹が手を抜いていたことを希羅梨は見抜いていたけれど、それは気づかないふりをした。
「まずはたこ焼き、カキ氷はこれ食べ終わってからね」
「わー、美味しそう」
希羅梨がほかほかのたこ焼きを受け取ると、春樹はニッと笑ってからもう一皿差し出した。
「これ、和馬に持ってって」
「……春樹ちゃん、変な気を使わないでよ」
「何言ってんの、パシリしろって言ってるだけでしょ。いいから持ってけ!」
希羅梨に和馬の分のたこ焼きを押しつけてから、春樹はもう一度、ニッと笑った。そして、たこ焼き屋のおじさんの「もう三つ、焼けたよ!」の声に、はいはいと返事をしながら行ってしまう。
両手にたこ焼きを持って、希羅梨は複雑な気分で微笑んだ。春樹に気を使わせてしまってる……。
美和に、春樹ちゃんも誘って一緒にお祭りに行こうよと言われた時、正直なところ助かったと思った。希羅梨の本当の気持ちを知ってくれている春樹が一緒なら、何かとフォローしてくれるだろうと思ってしまったのだ。
希羅梨の親友であり、和馬の幼馴染であり、和馬の彼女であるセスナとも友達な春樹がこうして気を使うことは承知の上で、だけど迷わず頼ってしまった。
なんて身勝手なんだろうと思う。
希羅梨は、自分の中に黒い部分があることを知っている。
身勝手で、ひどく醜悪な感情。
別れてしまえばいい、そう思う。
希羅梨だってセスナを友達だと思っているのに、少し無愛想なところがあるけれど真っ直ぐで、すごく素敵な女の子だと知っているのに。
だけど希羅梨の心の中で、黒い部分は徐々に広がっている。
じわり、じわりと大きくなって行く。
「はい、阿部くん。春樹ちゃんのおごりだよ」
「お、俺にもおごってくれんのか?」
「女に二言はないそうです」
「春樹らしー」
こんな時、和馬はとても優しく笑う。いつもは眉間に皺を寄せた不機嫌そうな顔ばかりしているけれど、彼はちょっとしたことで目を細めて、こんな風に笑ってくれるのだ。
和馬が笑うと、希羅梨は嬉しくなる。
それだけで、他のことは全て些細なことに思える程に。
「結構うまいな」
「うん、美味しいね」
「夜店のたこ焼きって、すげえまずいのあるよな」
「あるねぇ、生焼けのやつとか」
「生焼け、最悪。しかも、冷えててな」
「そうそう、あれは美味しくないよね」
ありきたりな会話、それが嬉しい。
電柱があるためにほんの一メートルほど屋台が途切れているその隙間にふたり並んで、焼きたてのたこ焼きを頬張る。口に入れると熱くて、はふはふとなんとか飲み下せば熱の塊が喉を滑り落ちていく。
お腹の底の方が直接温められて、体温があがる。
酔ってしまいそうだ。
「姫宮、もっとこっちに入れ」
「え?……きゃっ!」
和馬に注意された途端、希羅梨は誰かに背中にぶつかられてよろけた。慣れない下駄のせいもあって体勢を崩したところを、和馬が片手で希羅梨の二の腕を掴んで支える。
「あっぶねえ」
「ひえ……あ、ありがと、阿部くん」
たこ焼きもなんとかこぼさずに済んで、希羅梨はホッとして笑った。せっかく春樹が買ってくれたのだから、ちゃんと最後まで食べたい。
「くそっ、どいつだったかわかんねえ」
「阿部くん?」
吐き捨てるような和馬の声にたこ焼きに落としていた視線をあげると、和馬は両側に屋台が並んだ参道を途切れなく流れている人の群れを睨みつけていた。ほんのついさっきまでは柔らかい顔をして笑っていたのに、今は子供が見たら泣き出しそうな険しい表情をしている。
「姫宮、もっと奥に入っとけ」
「やだ……わざとぶつかった訳じゃないでしょう?」
「わざとだ。お前は背中を向けてたから見てなかっただろうが、肩とかがぶつかったんじゃねえ。わざと手を伸ばして押したんだよ。お前は、突き飛ばされたんだ」
「まさか、そんな……」
驚いた顔で自分を見上げている希羅梨に、和馬は呆れたように目をすがめた。多分そうだろうとは思っていたが、どうやら希羅梨には自分がいかに目立っているかの自覚が全くないらしい。可愛い娘が男と立ってたからムカついて押した、そんなところだろう。
「花火が始まったら、絶対に俺の傍を離れるなよ。どさくさに紛れてどっか触られたら、すぐに俺に言え」
この和馬の台詞に、希羅梨はぱちぱちと何度か目を瞬かせた。守ってくれるのと、消え入りそうな声がなんとか辛うじて和馬の耳に届く。
「ありがとう、阿部くん」
「え、や、別に、その、何だ……」
そんなことは当たり前だろうと、続く筈だった言葉を和馬は思わず飲み込んでしまった。
泣き出すかと思った。
希羅梨は笑ってありがとうと言ったのに、和馬にはその笑顔が今にも泣き出してしまいそうなものに見えた。
儚いという、言葉の意味を初めて知った気がした。和馬に向けられた希羅梨の笑顔は、儚いと形容するしかないものだった。
「お兄ちゃーん、希羅梨ちゃぁーん、次行くよぉー」
「カキ氷、カキ氷」
美和と和香が、こっちこっちと手招きしていた。
和馬は、残っていたたこ焼きをまとめて口に押し込んで、空になった皿を手近にあったくず入れに捨ててから、続けて食うのかよなんて言いながら妹たちの方に足を踏み出した。希羅梨も和馬に倣って残りのたこ焼きを口に押し込もうとしたけれど、まだ熱いせいもあってどうしても二つばかり入らなくて、モゴモゴと口を動かしつつたこ焼きの皿を持ったままで和馬の後を追った。
早く早くとせかしている美和と和香の後ろで、春樹が仕方ないなという顔で苦笑いしていた。