120 欲しいのは一つだけ
忘れはしない、あれは中二の夏だった。
ただ一人、本気で惚れた女を彦市は隣町であった花火大会に誘ったことがある。最初は断られたけれど、めげずに誘った。そしたら、嫌そうな顔をしながらもつき合ってくれた。
濃い紫の浴衣を着た涼華と、土手に並んで花火を見た。中学二年生にしてすでに涼華は、そこらの女子大生やOLではとても太刀打ち出来ないほど色っぽかった。
きれいだった、本当に。
幼馴染の欲目ではなくて、涼華は本当にきれいだった。
彦市は、やっぱり涼華だと思った、涼華しかいないと思った。だから告白した、花火大会からの帰り道でのことだ。
好きだと言った。正確には、「ほんまに好きなんよ」と言った。
あの一言に彦市は、ありったけの気持ちを込めた……。
夕日三丁目と書かれたバス停の前で、七人の男が円陣を組んでいた。祭りに向かう人々は、この場にあまりに不釣合いな一団にみんな一瞬ぎょっとしたような顔をするが、だけど男たちの腕にまかれた腕章を見るとすぐに納得するらしく、何事もなく通り過ぎて行く。
『沢浪北高校』と黒々と書かれたエンジの腕章をワイシャツの袖につけ、彦市はうんざりと輪の中心でさっきから延々と演説しているいる教頭の頭を眺めていた。
最近、毛が増えたんじゃなかろうか。それも、かなり不自然に。増毛だろうがカツラだろうが、彦市にはどうでもいいことではあるけれど。
「……では、阿久津先生と矢田部先生は本殿の周りを重点的のお願いします。屋台の裏なんかも抜かりなく見て回ってください。まあ、お祭りですから九時までは大目にみてやりましょう。特に三年生には、息抜きも必要でしょうから。九時を過ぎたら帰るよう指導してください。時間が遅くなりますとトラブルも発生しやすくなりますし、それに期末考査前ですしね。九時半になりましたら、先生方は一旦ここに集合してください。一通り報告をしていただいて、何もなければそれで解散になりますが、うちの生徒がまだたくさんいるようでしたら引き続き見回りをお願いすることになります。何かありましたらすぐに私の携帯へ連絡をお願いします。私は、大まかに全体を見て回りますので。では先生方、くれぐれもよろしくお願いします。何かあればすぐに連絡ですよ!」
黒い携帯電話を高く掲げて、連絡、連絡と何度も強調している教頭に「へーい」などと気の抜けた返事をしてから彦市が振り向くと、三年の学年主任である阿久津優介が、「では、行きましょうか」といつも通りの穏やかな顔で笑った。
まったく、この歳になって何が悲しくて男と祭りなんて行かなくてはならないのか。しかも、このクソ暑いのにきっちりとスーツを着て、ネクタイまで締めている男とだ。
ちなみに彦市は、上着は職員室の机の上に放り出して来た。ネクタイは外して、今はズボンの左ポケットに収まっている。
「阿久津はん、暑いんとちゃいますのん」
「暑いですね」
「そやったら、上着くらい脱ぎはったら。授業中やないんやから、かまわへんでしょ」
「ああ、そうですね。そうしましょうか」
見てるだけで暑く苦しいので彦市はそう言ってみた訳だが、阿久津は彦市の忠告に素直に従って上着を脱いだ。そして、その袖につけていた腕章を外してワイシャツの袖に腕章を付け替えている。全て、歩きながらの作業だ。
夕日神社の石段を登りながら周囲を見回すと、何故かカップルばかりが目につく。まだ夕方の早い時間だから家族連れの方が多いのに、彦市の目は可愛い浴衣姿の女の子と手をつないだり腕を組んだりして歩いている男にばっかり向いてしまうのだ。
代わらんかい、この野郎と心の中で毒づいておいてから、彦市はにへっと笑った。
「祭りなんて、見回る必要がありますのん?ええやないですか、好きに遊ばせたったら」
「好きに遊ばせますよ。教頭先生も言ってたじゃないですか、九時までは大目に見ましょうと。僕らの仕事は、家に帰って勉強しろと叱って回ることではなく、生徒たちが安全に遊べるよう見守ることです。最近は、何かと物騒ですからね。女子だけで来ているグループもあるでしょうし」
にこやかに正論を唱えられ、さいですかと彦市は溜息をついた。これがもしも涼華と一緒なら、こんな馬鹿らしい仕事だって楽しいデートに早代わりなのに、生憎と阿久津というこの男は嫌になるくらい真面目な学年主任で、毎年この祭りの見回りには自ら名乗りをあげているらしい。
「阿久津はんて、ホンマに教師の鑑やね。生徒に人気がある筈やわ」
「僕は、人気なんてないですよ。うちの学校の人気教師と言えば、来栖先生でしょう?」
「涼華の人気は、男子限定ですやん。教師としての魅力とはちゃいます、ええ女やってことですやろ」
「確かに、来栖先生はおきれいですよね。思春期の生徒たちが憧れるのは仕方ありませんよ」
何を言っても当たり障りのない正論が返って来る。ホンマに真面目なだけの男なんやろかと、彦市は訝しげに阿久津の横顔をまじまじと見た。
「憧れだけで済むんやったらええですけどね」
「と言うと?」
「言うまでもなく、教師と生徒の恋愛なんかご法度や。けど実際は、教師と生徒はようくっつきますやん。卒業してからつき合いだした言うけど、あれって嘘ですやろ?」
「まさか、来栖先生が生徒とつき合ってるんですか?」
「ちゃいますて、涼華のことやのうて一般論ですわ。ボクの大学時代のツレで、教え子の中から嫁さん選ぶて堂々と言うてる奴がおりますよ。嫁探すために教師になったそうですわ」
「それはまあ、教師として褒められたことではないですけど、気持ちはわからないでもないですね」
「ほお?」
彦市はもう五年も同じ学校に勤めているが、ずっと同僚である阿久津とはそんなに親しくしている訳ではない。右京あたりとならよく呑みに行ったりするが、阿久津は顔を合わせれば挨拶する程度のつき合いだ。
だから実のところ彦市は、阿久津優介という男をよく知らない。善良な男に見えるけれど、腹に一物抱えてるんちゃうかというのが彦市の予想なのだが。
「阿久津はんでも、女子生徒をそんな目で見ることがありますのん?」
「そんな目でって、どんな目ですか。いやだなぁ、僕だって可愛い娘は普通に可愛く見えますよ。でも、さすがにこの歳になるとジェネレーションギャップを感じますから、つき合いたいとかは思わないですけどね」
「生徒は、彼女にするには乳臭いですか」
「若すぎる、と言ってくださいよ。しかし、確かにあの若いパワー全開で来られると引きますね、疲れますし」
「ほな、大人しい娘やったらええやないですか。素直で大人しくて、それでもって若い。ええこと尽くしや」
「そう言う矢田部先生は、どうなんです?矢田部先生だって、女生徒に人気あるじゃないですか」
「ボクは、テストの採点が甘いから人気あるだけですわ」
「そんなことないでしょう、生徒たちはちゃんと見ていますよ」
「ちゃんと見てるから人気ないんですって。それにボク、涼華一筋ですもん」
彦市は、涼華を好きなことを隠したことがない。同僚の教師たちも、生徒たちも当たり前に知っている。彦市が涼華を追いかけ回していることと、涼華がまったく相手にしていないことは沢浪北高校で有名なのだ。
だけど、あまりに開けっぴろげなので冗談に見えるせいか、やたらと細かいことに厳しい教頭にすら咎められたことはない。
「そう言えば、矢田部先生と来栖先生は幼馴染でしたね。職場まで同じなんて、すごい」
「運命的ですやろ?」
「そうですね」
にこやかに笑う阿久津に、彦市もへらりと笑って見せた。うまいことはぐらかしおった、やっぱこの男は食えんなんて思っていることはおくびにも出さずに。
「ありゃ?あの二人、つき合うとったんかいな」
「ああ、D組の生徒ですね。一緒にいる女子は……」
「うちの二年ですわ」
「他学年の生徒まで、よく憶えてますね」
「人の顔をよう憶える性質なんですわ」
特に寝たことのある女の顔はよく憶えている、名前までは憶えていないが。
彦市と一度だけ遊んだことのある女子生徒は、三年D組の男子と仲良く腕を組んで人の波間に紛れて消えて行った。D組は彦市の担当クラスなのだが、あの男子の名前もやはり憶えてはいない。
「九時までは大目に見る、でしたよね。不純異性交流も可ですのん?」
「不純かどうかはわからないじゃないですか。生徒たちだってもう十七歳や十八歳だ、真剣に将来を考えてつき合っているのかもしれない」
彦市が涼華を追いかけ回していることを知っている上で、面白がって遊びで教師と寝る娘が将来なんて考えているかどうかは甚だ疑問だが、それは置いておくとして。
「阿久津はんて、意外と物分りがええんですね」
「意外ですか?」
「意外ですわ」
何を言っても笑顔を絶やさない優介に、彦市もへらへら笑いを絶やさない。表面上だけはお互い愛想よく、持ち場である本殿を目指して歩く。
「いいじゃないですか、矢田部先生だって高校生の頃にはもう来栖先生一筋だったのでしょう?」
「中学からですわ」
「それは、本当にすごい」
そう、彦市は中学からずっと涼華一筋なのだ、気持ちだけは。女遊びはするが、本当に欲しいのは涼華だけ。そのあたりのことをどうしても涼華は理解してくれないのだけれど。
「高校時代なんて、夢か幻のように過ぎ去って行くじゃないですか。大人になってから振り返って初めて、それがどんなに大切な時間だったかわかって愕然とするものです。いいじゃないですか、好きな相手と祭りで遊ぶくらい。今しか出来ないことだ、大目に見てやりましょうよ」
「阿久津はんも、何かええ思い出がありそうな口ぶりですやん」
「ま、それなりに」
「うわ、意味深やな。深読みしてしまいそうや」
お手柔らかにと笑う阿久津に、彦市も負けじとへらへら笑う。
やっぱこの男食えんわ、食いたいとも思わんけどなどと思いながら。