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school days  作者: まりり
12/306

11 どんな時も


 家に帰ると緊張する。

 もういい加減に慣れてもいいだろうにと自分でも思うが、だけど飛鳥井と書かれた立派な表札を見ただけでセスナは緊張してしまうのだ。


 この家にセスナが住むようになって、既に五年の月日が流れた。そうだ、もういい加減に慣れてもいい頃だろう。

 そう自分に言い聞かせながらセスナは、踏み出す足に力を込める。


 きれいに敷き詰められた玉砂利が、セスナが歩く度に微かな音を立てる。門から玄関まではゆうに二十メートルはあり、実に贅沢な作りの屋敷だと言えるだろう。

 誰も呼ばず、セスナは自分で鍵を開けた。純和風の引き戸に指をかけて横に滑らせれば、広いたたきの向こうには塵ひとつ落ちてない長い廊下が続く。セスナはごく小さな声でただいまと言うと、鍵をかけ直してから靴を脱いであがった。

 なるべく音を立てずに、このまま自分の部屋に逃げ込みたい。家政婦たちはみんな、養女であるセスナを慇懃無礼に扱う。つまり表面上は敬う態度を見せるが、一瞬でも背中を向けると舌を出しているということだ。


 学校の帰りにお花のお稽古に行き、そのまま先生のお宅で夕食をご馳走になった。飛鳥井家と古いつき合いという華道の家元・田之倉家は、飛鳥井家の養女に過ぎないセスナにもとてもよくしてくれて、こんな風に夕食にお呼ばれするのはよくあることなのだ。

 飛鳥井家と同じくらい旧家だという田之倉家だが、飛鳥井とは違いとても気さくな家風で、飛鳥井家で食事を取るよりセスナは余程くつろげる。夕食をご馳走になり、食後の一家団欒にも入れてもらって、帰りは田之倉の兄弟が送ってくれた。長男である慧一(けいいち)の運転で、助手席には次男の怜士が乗り込んで、後部座席で仲のいい兄弟だなと思いながらセスナは、カーステレオから流れる慧一の趣味だというジャズに耳を傾けたのだった。


 楽しい時間は、過ぎるのが早い。家に着くともう九時半だ、今日は特に遅くなってしまった。だけど、この時間だと通いの家政婦は帰ってしまっているし、二人いる住み込みの家政婦たちはもうそれぞれの自室に引取っているだろうから顔を合わせずに済む。

 セスナは足音を立てないように階段を登り、誰にも気づかれないままに二階の一番奥にある自分の部屋に辿り着くことが出来た。和風のこの屋敷の中で、セスナの部屋だけが洋室なのだ。

 窓際に置かれたベッドの上に重い学生鞄を放り投げ、そして自分自身も放り投げる。分厚いマットレスがセスナを受け止めて、スプリングが軋んだ。制服のままで寝転んだりしたら皺になる、そう思うけれど起き上がれない。


 息がつまる。


 今から五年と少し前、姉の美空がこの飛鳥井家の若き当主である飛鳥井柊也と結婚した時に、すでに両親とは死に別れていたために妹のセスナも一緒に引き取られる事となったのだ。それまでは親が残してくれたものと美空の僅かな稼ぎで慎ましやかな生活を送って来ただけに、セスナはこの急激な環境の変化について行けなかった。いくつもの会社を経営する飛鳥井家は格式が高く、広い屋敷や、家政婦たちが当たり前のように何人もいる生活は、セスナにとってはまるで異次元にでも迷い込んだようなものだったのだ。

 それでも姉が幸せならばと、セスナは頑張った。柊也が命じるままに、中学は私立の有名なお嬢様学校に進学したし、お茶を習えと言われれば習い、お花を習えと言われればそうした。


 息のつまる毎日、それでも姉のためならばとセスナは頑張れた。

 それなのに。


 その知らせは、突然に届いた。上流階級の令嬢ばかりが通う学校で、教室の隅で目立たないように一人きりの昼休みを過していた時、届いたのだ。


 姉の美空が息を引き取った、早退してすぐに帰って来るようにと。


 美空は、元から身体の弱い人だった。それなのに、両親が亡くなってからはセスナのために必死で働いてくれた。柊也と結婚して生活の心配はなくなったものの、それまでの無理が祟ったのか半年ほど前に突然に倒れ、そのまま起き上がれない日々が続いていた。


 それがとうとう亡くなってしまったのだ、結婚してからまだ三年も経ってなかった。


 同じ血を持つ最後の肉親である姉を見送って、セスナは呆然とした。姉のいない飛鳥井家に、セスナの居場所はなかった。けれど、まだ中学さえ卒業していないセスナに行くあてもまたなかったのだ。

 高校進学は諦めて働くとしても、とりあえず住むところが必要だ。アパートを借りるにも、まずその敷金さえセスナの手元にはない。

 姉が幾ばくかのものを残してくれなかっただろうかと、セスナが初めて一人で柊也の部屋を訪れたのは姉の葬儀を済ませた翌日のことだった。姉と一緒になら何度か入ったことのある日当りのいい広い部屋からは、広縁の向こうに手入れの行き届いた庭園が見渡せた。


 黒檀の座卓を挟んで柊也の前に正座したセスナは、どう切り出すべきかと迷い、口ごもった。姉は確か、セスナを受取人に指定した生命保険に入っていた筈だ。結婚して、その受取人が夫である柊也に書き換えられたかどうかは、セスナは知らない。もし書換えらえていたのだとしたら、セスナは柊也に当面の生活費を援助してもらうしか生きて行く術がない。


 つまりそれは、金を無心するということだ。

 もちろん返済するつもりはあるが、それがいつになるかはわからない。


 セスナは口ごもった、何と切り出せばいいのだろう。姉の生命保険の受取人は私ですかなんて、とても言えない。ましてや、お金を貸してくださいなんて。


 冬だった。

 中等部の卒業式を二か月後に控えた、そんな時期だった。


 柔らかい冬の日差しが部屋の中ほどまで差し込んでいたが、セスナは真っ暗な地の底に座っているような気がしていた。どうしても言葉が出て来ずに唇を震わせていた。そんなセスナに柊也は、予想もしなったことを告げた。


 「セスナ、お前を正式にこの飛鳥井家の養女にすることにした。それと、高校は公立を受験するように。願書の締め切りはもう過ぎているが、そんなものは何とでもなる。よいな、間違っても落ちて私に恥をかかせるな。肝に銘じておけ」


 暖かみの欠片もない口調でそれだけ言うと、柊也はもう話は終ったとばかりに立ち上がった。何を言われたのか飲み込めずに座り込んだままのセスナを残して、部屋を出て行ってしまう。

 その襖が閉まる音でセスナは我に返った。そしてまろぶように立ち上がると、慌てて柊也の後を追った。


 「兄さま、柊也兄さま!」


 セスナが必死でその名を呼んでも、柊也は振り向いてくれなかった。それでも、セスナは柊也を追った。声が掠れる。


 「柊也兄さま、どうかお待ちください。どうして……」


 柊也の着物の袖を縋りつくように掴んで、セスナは掠れる声を振り絞った。着物の袖とは言えこの時が、セスナが柊也に触れた最初だった。


 「あの、どうして」


 言葉をちゃんと続けられないセスナを冷えた目で見おろしながらも、柊也は口を開いた。


 「美空の望みだ」

 「お姉ちゃんの?」

 「養女の件も、高校のことも美空の望みだ。あれはお前の心配ばかりしていた。特に学校には馴染めていないようだと、口を開けばそんなことばかりだった。養女になれば正式に私の妹だ、何の遠慮もなくこの家で暮らせるだろう。学校は、お前に合ったところに行けば良い。ただし、合格しろ」


 セスナの指から力が抜けて、柊也の袖がするりと離れた。柊也はそれ以上はもう何も言わず、立ち竦むセスナには一瞥もくれずに去って行った。


 床の冷たさが、足の裏からセスナの身体を這い登ってきた。

 姉の自分に対する愛と、柊也の姉に対する愛が混沌とセスナの中で渦巻いた。


 これでいいのだろうかという疑問に吹き飛ばされそうになりながらも、だけどセスナは柊也の言う通りにするしかなかった。義妹にすると柊也は言ったがすでに柊也の両親はこの世におらず、当然その養女になることはかなわない。なのでセスナは、今は引退して長野県の山奥で一人焼き物をして余生を楽しんでいるという一度も会ったことのない柊也の祖父の養女になるという形が取られた。

 飛鳥井家の顧問弁護士の手によって作成された書類にサインをして、正式に飛鳥井セスナとなって受験に臨んだ。中等部まで通ったお嬢様学校のエスカレーターに乗って高等部に進学するつもりだったため受験の準備期間は短かったけれど、それでも日頃から努力していたセスナは難なく沢浪北高校の合格通知を手にした。


 姉のくれた最後の愛が、そうやってセスナを和馬と巡りあわせてくれたのだ。


 晴れて沢浪北高校に入学して、セスナが初めて会った時の和馬の印象は何だこいつ、だった。あのツンツンと立てた髪は何なんだ、いつも気に入らなそうに睨むのは何なんだ。そして、どうしてすぐにセスナに構おうとするんだろう、たまたま同じクラスで、席が隣になったというだけなのに。


 セスナが和馬に感じていたものは、困惑としか言いようがないものだった。それがいつの間に好きという、摩訶不思議な感情と取って代わったのかはわからない。


 つき合い始めたのは、一年の終わり頃らしい。らしいと言うのは、ただのクラスメートから恋人へと移行した境目がはっきりしないせいだ。

 どちらも好きだとか、つき合おうとか言った訳ではない。だけどいつの間にか当たり前にセスナは和馬の彼女だったし、和馬はセスナの彼氏だった。


 そう、おかしなことかもしれないけれど、いつの間にか二人は恋人同士だったのだ。


 学校にいる間は気を張っていなくてよかった。お嬢様学校とは違って公立の沢浪北高校でなら、大口を開けて笑っても誰もセスナを咎めない。


 その上、セスナの隣には和馬がいてくれる。


 どんな時も、たとえ飛鳥井家で気詰まりな思いをしている時でさえも、和馬を想うとセスナは心が緩む。暖かい何かで満たされる。


 和馬の声がセスナを呼ぶ、そのどこか照れくさそうな響き。

 セスナ、セスナ、セスナ。


 優しかった姉、セスナを最期まで心配していた姉。その姉が彼に巡り合わせてくれた。

 どんな時だって、和馬さえいてくれたら大丈夫。


 今頃は天国できっとまた自分を心配しているだろう姉にセスナは、そう伝えたいと思った。



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