117 甘え上手な妹の甘い罠
晴音が生まれてから五年、持つべきものは甘え上手な妹だなんて初めて思った。彼女の子供好きにつけ込んだようで少し気が引けるが、これくらいは許されるだろうとも思う。
と言うか、是非とも許して欲しい。
何も告白しようとか、無理矢理に気持ちを押しつけようとか企んでいる訳ではない。ただ単に祭りに行くだけだ。しかも、子連れ。どうせ彼女の手は晴音に取られるのだ、デート気分さえ味わえないのは確実。
それでも気持ちが浮つく、そんな自分に驚くがどうしようもない。これが噂に聞く、恋の不思議というものだろうか。
「……」
さっきから少しも頭に入らない参考書から顔をあげて、雪都は白いレースのカーテン越しに外を睨んだ。
待ち合わせは、夕方の六時。彼女の家まで晴音と二人で迎えに行くことになっている。
窓の外には、腹が立つほど明るい昼間が広がっていた。いつもは一時間や二時間なんてあっという間に過ぎるのに、何だって今日に限ってこんなに長く感じるのか。
大体、晴音が珍しく昼寝なんてしてるのが悪い。
いつもより早めに保育園に迎えに行ったから、家に帰ったらまだ四時半を少し過ぎたあたりだった。約束の時間までは一時間以上あると言ったら、夜の祭りに備えて昼寝するのだと宣言して、晴音は自分で押入れからタオルケットを出して本当に寝てしまった。
いつもいつも、これでもかというくらいにうるさくまとわりついて来るのが寝てると静か過ぎて調子が狂う。カチカチと、時計の音まで聞こえてしまうほど静かだ。時計の音に混じって、エアコンの微かな作動音まで聞こえて。
「……」
勉強を開始して僅か数分で雪都は、ぽいっとシャーペンを放り出した。
せっかくうるさいのが寝ているから少しでも勉強しようと参考書を広げてみたが、きっぱりすっぱり諦めた。英単語なんて一つも頭に入りゃしない。俺って本気で落ちるかもなんて不吉なことを思いながら立ち上がると雪都は、ばふっとベッドに顔から倒れ込んだ。
彼女は、浴衣とか着て来るのだろうか……いや、そんなことはどうでもいいのだけれど。
数日前、表向きは雪都の彼女ということになっている希羅梨が、どうしようと青ざめた顔で相談を持ちかけてきた。希羅梨があきれるほど長い間ずっと片想いしている和馬と七夕祭りに行くことになったなんて言うから少しは進展したのかと思ったら、和馬の妹たちも一緒だと言う。おまけに希羅梨の親友である尾崎春樹も一緒に行くと言うのだから、和馬も一緒は一緒だが、文字通り一緒に行くだけであってそこに何の意味もない。
それのどこがどうしようなんだよと言ったら、無言で拳が飛んできた。こめかみのあたりをコツンとやられて、雪都は思わず頭を抱えてしまった。
いや、希羅梨のパンチのせいで頭を抱えた訳ではない。雪都は、自分も希羅梨のことをほんの少しも笑えないことにコツンとやられて気づいてしまったのだ。
口をぎゅっと引き結んで、黙り込んでしまった雪都に希羅梨は首を傾げた。隠すこともないかと雪都は、俺も晴音と中森の三人で祭りに行くことになったと正直に白状した。
すると希羅梨は、三人だからマシだよなんて的外れになぐさめてくれた。
五人で行くのも三人で行くのも同じだろうと雪都は思う。祭りなんて二人で行くからこそ意味があるのであって、みんなでワイワイ行ってどうする。
ころんと、雪都はベッドの上で体の向きを変えた。壁に向かって横向きになる、雪都がいつも寝る時の体勢だ。
だけど、寝るつもりなかった。そんな時間はない。
ただ、こうしてると落ち着くから自然とこの体勢を取ってしまっただけのことだ。
彼女はどうやら、晴音を可愛いと思ってくれているらしい。元から子供好きなのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。晴音にねだられれば、祭りにつき合うくらいは普通にするだろう。
ここで重要なのは、祭りに行くのは晴音と彼女であって、雪都はその付き添いに過ぎない。女の子と子供だけで夜に出歩くのは危ないから、ボディガード代わりについて行くだけだ。
それなのに自分は、何をこんなに舞い上がっているのか。
落ち着け、落ち着けと雪都は自分に言い聞かせた。窓の外には、明るい夏の昼間がのんびりと横たわっている。六時は、遥かに遠いような気がする……。
彼女は浴衣を着て来るだろうか……いや、そんなことはどうでもいいから。
希羅梨にお互い頑張ろうねと言われてしまった。だけど、何をどう頑張ればよいのやら。というか、頑張る気はないのだけれど。
彼女を好きだと思う、だけどそれ以上に守りたいと思う。
彼女の気持ちが自分に向いてないと知っている以上は、困らせることは絶対にしないと決めている。
眠るつもりはなかったのに、いつしか雪都はうとうとと眠りに落ちかけていたらしい。ガチャッと、ノックもなしにドアが開いた音に思わず飛び起きてしまった。兄のあせった顔に晴音がきょとんと首を傾げる。
「お兄ちゃんもお昼寝してたの?」
「……お前、それどうしたんだ?」
いつの間にか晴音は、白地に赤い金魚が泳いでいる浴衣を着ていた。帯の色は黄色、髪には花の髪飾りをつけている。
「お母さんが着せてくれたー」
「お袋、帰ってんのか?」
「お父さんも帰ってるよ」
「へ?」
慌てて窓の外に視線を走らせると、あんなに明るかった光がすでに翳り始めている。どうやら思いのほか長く寝ていたらしい。
「二人揃ってこんなに早く帰って来るなんて、珍しいな」
「お祭りだから、早く帰って来てって言っといた」
「……へ?」
「私、お父さんとお母さんと一緒に行くから、みゅうちゃんにゴメンねって言っといてね」
「……」
パタパタと、晴音の足音が廊下を遠ざかって行く。雪都はしばらく呆然としていたが、階下から聞こえて来た晴音の「早く行こうよ」の声に弾かれたように部屋を飛び出した。
「晴音っ、ちょーっと待てぇ!」
階段を数段飛ばしで落ちるように駆け下りて、玄関まで走れば上がり框のところで早く行こうと晴音に手を引っ張られている秋雪が振り向いた。
愛娘に甘えられてデレデレになっている父は、黒っぽい縞の浴衣を着ていた。妙に似合ってるなんて、雪都は見た瞬間にそんなどうでもいいことをつい思ってしまった。
「雪都、お前も行くか?」
「お兄ちゃんは、みゅうちゃんと行くんだよ」
「おお、そうか。頑張りなさい」
だからっ、何を頑張るんだ!
頭の中が思いきりぐちゃぐちゃで混乱しまくっている雪都の横を、母の十和子がすいっと通り過ぎた。こちらは白地に紫の鉄線の花が裾に大きく描かれた浴衣だ。
母も妙に似合っている、そんなことは本気でどうでもいいけど。
「十和子、雪都は美雨ちゃんと行くそうだよ」
「あら、そうなの。雪都、お小遣いは持っていますか?」
「あ、いや、だから……」
「少しあげましょうね」
そう言うと十和子は、手に持っていた巾着から財布を取り出して小遣いをくれた。そして、頑張りなさいと父と同じことを言う。何を頑張れと言うのか、小遣いまでくれて一体何を頑張れと……。
行って来まーすという晴音の声が、ぼんやりと遠くに聞こえた。もう何も言うべき言葉が思いつかず、仲良く出かけていく両親と妹を無言で見送った。
「……」
手に母がくれた五千円札を握り締めて、雪都は玄関口で呆然としていた。彼女に電話しようか、晴音が親と祭りに行っちまったからごめんなと謝るべきだろうか。そうだ、電話をかければいい。それだけで問題は解決する。どうせ雪都は元々、ただの付き添いだったのだ。祭りに行く約束をしたのは晴音と彼女であって、雪都ではない。
だけど、彼女は浴衣を着るのだろうか。
今頃、支度をしてるのだろうか。
「あー……」
雪都はくしゃくしゃの五千円札を握り締め、玄関口で意味もなく天井を仰いだ。