116 夏は、夜?
「夏は、やっぱ夜やろ?月が出とったら最高やね。蛍見に行くのもええけど、今夜は祭りやな。七夕祭りやなんて、風流やんか。で、涼華は浴衣着るん?それやったら、涼華のマンションまで一回帰えろか。心配せんでもええ、ボクが着付けしたる。ボク、こう見てても着付けできるんやで」
もう見飽き過ぎて見たくない狐顔に、涼華はにっこりと笑って見せた。職員室の自分の机で帰り支度をしていると、今日もまたいつものように懲りない狐がひょいひょいと寄って来たのだ。
いつもなら完璧に無視してやるところだが、今日の涼華は最高の笑顔で狐を迎えた。そして、「六時に夕日三丁目のバス亭前ね」と、彦市の耳元に囁くように言った。
「……へ?」
「夕日神社の前だと人が多すぎて会えないかもしれないから、夕日三丁目のバス亭前で待ち合わせよ。神社から三百メートルくらい北に行ったところにあるって」
「って……涼華?」
「時間厳守。遅れたら、お・し・お・き・よ?」
「え……ええええええ!」
「これ、忘れずにつけて行ってね。じゃあ、祭りの見回りよろしく、矢田部先生」
「……え?」
今にもむしゃぶりつきたいような唇をちょっととがらせて、涼華がばっちりとウィンクして見せた。そして、はいどうぞと手渡されたのは、『沢浪北高校』と黒々と書かれた、エンジ色の腕章で……。
「……見回り?」
「そう、見回り。祭りだからって羽目を外す生徒が出ないように、ちゃんと見張ってね」
「なんでボクが……」
「各学年から二人ずつ、三年からは阿久津先生とアンタが出るって、今朝の職員会議で決まったでしょ」
「知らんわ、そんなん!」
「遅刻して来るアンタが悪い」
妖艶な微笑みを顔に張りつかせたまま立ち上がった涼華は、腕章預かっといてあげたんだから感謝しなさいよと言いながらヒールを彦市の靴にぐいっとめり込ませた。彦市の顔がさっと青くなる。
「女のところに泊まるんなら、次からは代えのシャツくらい用意しときなさいよね」
ピンクのルージュが薄っすらとついてる襟をピンッと指先で弾いて、涼華がめりめりとヒールに体重をかけた。冷や汗が滲んで来た顔で何とか笑ってみせたけれど、それで足の痛みが消えてくれる筈はない。
「い、いややわぁ、涼華。何か勘違いしてはるわ。涼華がつれないからボクは毎晩、自分の部屋で寂しく独り寝やん」
「携帯に電話した時に出た、あの女の人は誰かしらぁ?」
「姉ちゃんや、姉ちゃん!昨日、遊びに来とってん」
「おかしいわねぇ、私の記憶に間違いなければアンタは一人っ子な筈だけど。いつからお姉さんが出来たのかしら、おじさんかおばさんに隠し子でもいたの?」
「そうや、親父の隠し子やねん。半分だけ血の繋がった姉ちゃんや、偶然に運命の出会いを果たしたんよ」
「あら、それはすごいわね」
「そうや、すごいやろ」
顔だけはにこにこと笑い合いながらも、涼華のヒールはぐいぐいと彦市の革靴にめり込んで行く。彦市のこめかみをたらりと一筋の冷や汗が伝った。
「電話、何の用やったん?姉ちゃんも人が悪いわ、涼華から電話があったんやったら言うてくれたらええのに」
「ただの業務連絡だから、気にしなくていいわよ。今朝の職員会議で祭りの見回りの件を話し合うから、十分早く登校しろってことだけだったから」
「そうなん?」
「ええ、そうなの」
「どっちにしろ、せっかく電話もろたのに悪かったね。姉ちゃんにもきつう言うとくわ」
「ぜんぜっん気にしないで、お姉さんによろしくね」
最後のトドメとばかりにぐいっとヒールに全体重を乗せてから、涼華は「ほな、さいなら」と彦市の鼻先で手を振った。彦市は冷や汗ダラダラの顔で、それでも笑顔はそのままに「また明日」と手を振り返した。