115 ぷかぷかぽかぽか
重いランドセルを揺らしながらおひさま保育園に駆け込み、紗奈が保育室を覗いた時には五、六人の園児がまだ残っていた。その中に、お絵描きもせず積み木でも遊ばずに暇そうに壁にもたれかかっているつり目の男の子を認めて、紗奈は「元気くん」とその名を呼んだ。
数人の女の子たちに囲まれて絵本を読み聞かせていた保育士がちょっと待ってろよと言い置いて立ち上がり、「元気、ほら迎えだぞ」と無駄にドスの利いた声で怒鳴る。
戸口のところまで出てきた担任の御手洗寛治に紗奈がぴょこんと頭をさげると、寛治の脇をすり抜けるように、水色のスモックの上に黄色いカバンを斜にかけた元気が飛び出して来た。気をつけて帰れよと見送ってくれた寛治にもう一度頭をさげてから、紗奈は先に歩きだした元気の後を追った。
「元気くん、遅くなってごめんね。掃除の時間にふざけてて窓を割っちゃった男子がいてね、放課後にその反省会があったの」
紗奈が走らなければ追いつけないほど、元気はずんずんと先に行ってしまう。ランドセルを揺らして紗奈はパタパタと走った。
「別に、そんなに遅くねえよ」
「でも、待ったでしょ……ね、晴音ちゃんは?」
さっき、保育室の中には元気がよく一緒にいるピンクベージュの髪の可愛い女の子の姿が見えなかった。晴音はお迎えが遅いことが多いらしく、紗奈が元気を迎えに行った時には大抵まだ残っているのに。
「なんか、兄ちゃんが部活を辞めたんだと。だから最近、晴音の迎えはすげえ早い」
「そうなんだ?じゃあ、やっぱり遅くなってごめんね」
「別に、そんな遅くねえって」
元気は保育園児らしからぬきつい言い方をするが、ちょっと意地っ張りなだけで実は優しい男の子だということを紗奈は知っているので気にもならない。気になるどころか、元気の優しさがあったから紗奈は今まで生きて来れたのだ。今の家に引き取られるまでいた孤児院で、もしも元気に出会えなかったら紗奈はとうに生きることを諦めていただろう。
「元気くん、ちょっと待って」
そう言うと、元気は必ず足を止めてくれる。後ろを振り向くことなくずんずんと歩くけど、待ってと言えば待ってくれるのが元気の優しいところだ、少しわかりにくい優しさではあるけれど。
「あ、お祭り……今日だね」
紗奈の待ってという言葉で元気が足を止めた場所は、個人経営の小さな酒屋の前だった。ガラス製の自動ドアに、有名女優が微笑む清酒のポスターと並べて貼られていたのは、 『ゆうひじんじゃたなばたまつり』 と、子供向けに全て平仮名で書かれたカラフルなポスターだった。
紗奈は、吸い込まれるようにポスターに見入った。子供が描いた絵を使ったのだろう、綿あめや金魚、ヨーヨーなどの拙いイラストが紙いっぱいに溢れている。
「夕日神社って、ちょっと遠いんだって」
まだこの町に越して来て日が浅いので、紗奈はこの辺りの地理に詳しい訳ではない。だけど、同じクラスの子がこの七夕祭りに行くと言っていたから場所を訊いてみた。
夕日町というのは、この沢浪町からはバスに乗らなければ行けないくらい遠いらしい。歩いて行けるところなら、元気と二人だけでも行けるかなと思ったのだけれど。
今、二人が世話になっている梶原家は、ケーキ屋を営んでいる。店の営業時間は夜の八時までで、お祭りに連れて行ってなんて絶対に言えない。里親になってくれただけで感謝しきれない程なのに、そんな我侭を言える筈がないのだ。
「私ね、ヨーヨー釣りならしたことあるよ。小さな風船に輪ゴムがついててね、それがぷかぷかとお水に浮いてるの。輪ゴムに針金の曲がったのを引っ掛けて釣るんだよ。でも、持ち手のとこが紙だから、濡れると切れちゃうの」
紗奈の母親は、結婚の約束をしていた紗奈の父親に裏切られ、ぼろ布のように捨てられたせいで心が病んだのか、何か気に入らないことがあると酒を飲んで娘を叩くどうしようもない女だった。けれど、それでも暖かな思い出がない一つもない訳ではない。
何の気まぐれだったのか、一度だけ紗奈は母に祭りに連れて行ってもらったことがある。もっとも、ヨーヨー釣りをしただけで母の気まぐれは終わったらしく、綿あめや金魚すくいの屋台を横目にすぐに帰ることになってしまったのだけれど。
「でもね、釣れなくても一つは貰えるんだよ。元気くんなら何色が欲しい?」
「んなもん、欲しくねえ」と吐き捨てるように答えた元気に、紗奈は「そうだね、私も欲しくないや」と寂しそうに笑った。
確かに、欲しいとは思えない。
あの時、母の気まぐれで一度だけ連れて行ってもらった祭りでただ一つだけ紗奈の手に入った薄紫色のヨーヨーは、翌朝には割れていた。中に入った水が飛び散って、床が濡れたと紗奈はまた母にぶたれたのだった。
そして、その祭りの夜から一月も経たないうちに紗奈を残して母は一人、ふらりと出て行ったまま二度とは帰って来なかった。
冷蔵庫の中にはいくらかの食べ物が残っていたので、それを食べつないで紗奈は母を待った。だけど、やはり母は帰って来なかったのだ。
母がいなくなってから何日目だったか定かではないが、紗奈のことを前から気にかけてくれていたアパートの大家が様子を見に来て、虚ろな目をして台所の板の間に座り込んでいた紗奈は救い出された。
それからのことは、紗奈はあまり覚えていない。何日か病院に入院したような気がする。病院にスーツを着たおじさんが何人も来て、何か訊かれたような気がする。だけど、全ては霧の向こうに霞んでいてよく覚えていない。
気がつけば紗奈は、片田舎の孤児院にいた。部屋の隅に膝を抱えてうずくまっていると、きつい目をした小さな男の子が紗奈を睨むように見ていた。
「早く帰ろうぜ」
「そうだね、寛平さんのお手伝いをしなきゃね」
英介と朔夜の梶原夫婦は店が忙しいため、家のことは寛平という手伝いの大男が一切を仕切っている。そうしろと命じられた訳ではないけれど、紗奈は寛平を手伝って夕食の準備をすることにしていた。元気は元気で、風呂を掃除したり洗濯物をたたんだりと、これも自主的に手伝っている。
元気は、まだよちよち歩きの頃に父親に殺されそうになって保護されたらしい。
不慮の事故で妻に先立たれた若い父親は息子を育てるのが面倒になったのか、あろうことか住んでいたマンションの窓から元気を捨てた。部屋が二階だったことと、落ちたのが花壇の柔らかな土の上だったことが幸いして、ちょうど下を通りがかった近所の主婦によって元気は救われたのだ。
元気を捨てた父親は精神状態が普通ではなかったということで罪には問われなかったが、元気が乳児院に保護されてしばらく後、自殺してこの世を去ったらしい。その当時、元気は幼かったために父親のことは何一つ覚えてないが、元気の体に残された無数の傷跡だけが父親が存在していたということを今でも元気に教えてくれる。
別に死んでもよかったのにと、元気は言う。
紗奈も、別に死んでもよかったのにと思う。
母親に捨てられて、あのボロアパートの台所の、汚い床の上で野垂れ死んでも別にかまわなかったのにと思うのだ。
だけど梶原家に引き取られて紗奈は、今まで知らなかった体がぽかぽかする暖かさを知った。何か暖かい水のようなものに包まれて浮かんでいるような気がする。ぷかぷかぽかぽか、紗奈自身がヨーヨーにでもなったような毎日。
別に死んでも良かったのに、そう思うのは今も変わらない。だけど、別に生きてもいいかなと思うようになった。もう少し、生きてみてもいいかな。
「あれ……お店、閉まってない?」
梶原夫妻が営むケーキ屋『黒猫』が見えるところまで帰って来た紗奈は、そこで足を止めてしまった。遠目でもわかる、シャッターが閉まっているのだ。
「閉まってるな、今日って休みだったか?」
「違うよ。朝、学校に行く時には英介さんが開店準備してたもん」
だけど、『黒猫』のシャッターは確かに閉まっていた。
どうしたのだろうと、紗奈は元気と共に走り出した。ただいまも言わずに、店の裏にある居住スペースの方の玄関から駆け込むと、遅かったなと言いながら朔夜が手に何かを持って奥から出て来た。
「紗奈、気に入るかどうかわからんが適当に買って来た」
「え?」
朔夜が手に持っていたものを紗奈の目の前に広げた。黄色い地に鮮やかなピンクでうさぎの絵が描かれたそれは、どう見ても子供用の……。
「……浴衣?」
「スーパーでな、三割引になっとった。色も柄はいま一つだが、紗奈のサイズはこれしか残ってなくてな」
派手過ぎるかと朔夜は、カラカラと声をあげて笑う。元気の方を振り向いてみると、こちらは寛平に濃紺の浴衣を体にあてられて、丈を見られている。
「着てみてくれるか、急いで丈を直さねばならんからの」
黄色い浴衣をほいっと手渡され、紗奈は思わず受け取った。紗奈にとっては、浴衣なんて触るのさえこれが初めてのことだった。
この家にいると、体が奥底の方からぽかぽかと暖かくなる。
ぷかぷかぽかぽかと、暖かな何かに包まれる。