113 大馬鹿野郎の覚悟
風呂から上がって、部屋に戻るとちょうど携帯が鳴り出した。セスナはタオルを肩にかけたまま、田之倉怜士と発信者の名前が表示されているのを確かめてから通話ボタンを押した。
「よお、セスナ」と、聞き慣れた怜士の声を聞いてセスナは、すうっと息を吸い込む。そして、どういうことだといきなり怒鳴りつけた。
「スマン!けど、俺のせいじゃねえぞ。お袋が勝手に柊也さんに頼んだらしい」
「勝手にだと、そんなことがある筈なかろう!」
「いや、マジで勝手に頼んだんだって。お前、七夕祭りに行ったことがねえとかお袋に言わなかったか?」
「言った、かもしれんが……」
「お袋、お前のことが可愛いんだよ。うちのお袋、本当は娘が欲しかったんだと。けど、うちは野郎ばっかだからな。だから、お前のことを勝手に実の娘みたいに思ってんだ。お前が飛鳥井で肩身の狭い思いをしてるの知ってっから、つい言っちまったんだろ」
「それにしてもだな、これではまるで私と貴様がその……」
「つき合ってるみたいだってか?つーか、少なくともうちのお袋はそう思ってるぞ」
「……この前の映画か?」
「この前の映画だな」
ハアーッと、セスナは大きなため息をついた。一つ嘘をつけば、その嘘を守るためにまた嘘を重ねなければならない。そんなことは重々承知しているが、それにしても。
つい数時間前のことだ、夕食の席でセスナは柊也に「田之倉怜士と七夕祭りに行きたいという件、許可する。しかし、節度をわきまえてあまり遅くならぬよう」といきなり、しかも一方的に言い渡されたのだ。
セスナにとっては寝耳に水だった、何のことやらさっぱりわからず箸を握ったまま硬直していると、新しい浴衣を買えば良いだろうなどと言い捨てて柊也は、先に食事を終えて自室に戻ってしまった。
柊也が部屋を出た後もしばらくセスナは硬直していたが、ハッと我に返って箸を放り出して駆け出した。自分の部屋に戻り、学生鞄に入れっぱなしだった携帯を引っ張りだして、怜士の番号を呼び出す。呼び出し音を数えながらジリジリと怜士に繋がるのを待ったが、何をやっているのか怜士は出なかった。そのうち留守番電話サービスに切り替わったので、セスナは七夕祭りのことについて説明しろとメッセージを入れておいた。そのメッセージを聞いて、怜士はこうして電話して来たのだ。
「柊也さん、何て言ってた?」
「行っても良いそうだ」
「なんか……えらく寛大だな」
「相手が貴様だからだろう」
「あ?」
ハアーと、どうしてもため息が出てしまう。これが和馬だったらと思うと、それだけで泣きたい気分になる。
どうやら怜士の母、里美だけでなく、柊也もまた怜士とセスナがつき合ってると思っているらしい。しかも、交際を認めているらしい……。
いくら憧れのデザイナーに会いたかったからとはいえ、今度ばかりは嘘をついたことを後悔せずにはいられなかった。自分のことだけならどうとでもなるけれど、怜士を巻き込んでしまった。スマンと謝るべきなのは、怜士ではなくてセスナの方だろう。
「で、どうすんだ。祭り、行くのか?」
「行ける訳なかろう」
「どうして行ける訳ねえんだよ?」
「それは……」
和馬の不機嫌そうな顔が頭をよぎる。
前の時は結局、和馬には何も言えないままに怜士と出かけてしまった。しかし、あの時には理由があった。一度でいいから憧れのデザイナーに会いたいという理由だ。
けれど、今回は理由がない。和馬以外の男と祭に行くなんてとんでもない。
「怜士、私はな……」
「男がいるから、俺と行くのはまずいってか?」
「怜士?」
「それがどうしたよ?」
「怜士、お前……」
「それがどうした、そんなん知るかよ。行くぞ、セスナ。祭りだろうが何だろうが、行くからな」
「怜士、どうしたのだ?何を訳のわからんことを言って……」
俺はお前が好きなんだよと、言われてセスナは「はあ?」と思いきり訊き返した。
「……おい」
「いや、そのだな、だから、何だ?」
「だから、何だよ?」
「いや、だから……落ち着け、怜士」
「俺は落ち着いてるつーの」
「嘘だな?」
「嘘でこんなこと言うかよ」
「……」
お前、鈍過ぎという怜士の呟きで、セスナの手の中の携帯が滑った。落ちそうなところを慌てて握り直す。
「怜士、私にはな……」
「男がいるってんだろ、知ってるっての。それでもいいんだよ、俺は気が長いからな」
「怜士……」
「とにかく、祭りの日には迎えに行くから」
「駄目だ、怜士。私は行けぬ」
「祭りくらい、いいだろうが」
「そうではない」
「彼氏にばれたら困るってか?それこそ、俺の知ったこっちゃねえな」
「怜士!」
「何とでも言い訳できっだろうが、柊也さんの言いつけで仕方なく行ったとか言えばいい。それでも怒るような男ならやめちまえ」
「……行けぬ」
「たかが祭りだぞ」
「たかが祭りだからだ」
「セスナ、お前は一生、あの男を好きだと言い切れるのかよ?まだ高校生なんだぞ、気持ちなんていくらでも変わるだだろうが」
「そうかもしれぬ」
そんなことは、誰に言われなくてもセスナが一番よくわかっていた。
和馬との恋は、高校を卒業すると同時に終わるだろう。同じ大学に行けばもう四年あると思っていたけれど、どうやらセスナの思惑通りには行かないらしい。
無理をしてつき合い続ければ、きっとセスナはいつか和馬のプライドを傷つける。兄が、一介の町医者の息子である和馬をセスナの相手として認めてくれるとは思えないからだ。
憎まれてしまうかもしれない、それならいい思い出にできるうちにきれいに終わらせた方がいい。それはわかっている、頭では理解している。心がギシギシと軋むけれど、もう決めている。
「怜士……スマン、卒業するまで待ってくれ」
「返事を待てってことか?」
「……ずるいな、私は」
「ああ、最悪だ」
怜士の気持ちに気づいてなかったと言えば嘘になる。いや、はっきりと気づいていた訳ではなかった。それでも告白されて、セスナは驚くよりも納得してしまったのだ。怜士の隣がひどく居心地が良い、その理由に気づいた。
「だったら、私なんぞ嫌いになればよかろう」
「無茶言うな」
「お前、やはり阿呆だな」
「ほっとけ」
最悪だと、セスナも思う。
最悪だ、こんな時でも計算をしてしまっている。
和馬とは、高校を卒業すれば終わる。恋は、もう二度と出来ないかもしれない。だけど、セスナは飛鳥井の娘としていつか兄が決めた家に嫁がなければならないのだ。その相手が怜士ならまだいいと、そう思ってしまった。
見ず知らずの男より、遠慮せずに何でもポンポンと言える怜士の方がいいに決まっている。それに、息苦しいこの飛鳥井家を出て、あの心安い田之倉家に嫁ぐのはセスナにとって幸せなことだと思えた。
手足を思う存分のばして、ゆったりと暮らせるだろう。その上、尊敬している里美を母と呼べる。そんな幸せなことが他にあるだろうか?
本当に最悪だと、セスナは携帯を握りしめた。自分のことばかり考えて、怜士の気持ちを無視してしまっている。
「怜士、私はきっとお前を傷つける」
「いいぜ、覚悟の上だ」
「大馬鹿野郎だな」
「だから、ほっとけっての」
とにかく祭りには行かぬからと念を押してからセスナは電話を切った。力の抜けた手のひらから携帯がするりと抜け落ちて、毛足の長い絨毯の上にストンと難なく着地した。その横に、セスナも膝を折って崩れた。
絨毯の上に寝転んで、セスナは大きな目を見開いていた。泣きたいような気がした。怜士の優しさに、己のずるさに、声をあげて泣きたいような気がした。
だけど瞳は乾いたままで、涙なんて一滴も出なかった。