108 満月日和
仲良く手をつないで歩いている美雨と晴音の後ろを少し遅れてついて行きながら、我ながら俺も底意地悪いなと、雪都は一人で苦笑いしていた。送り狼から彼女をまんまと掻っ攫えて、つい顔の筋肉が緩んでしまったのだ。
かなり嫌な奴だなと自分でも思う。崇は躾のいい狼だったのに、悪いことをした。けれど、なかなか気分が良かったことも確かで。
晴音が何やら美雨に質問して、美雨が笑いながらそれに答えている。寝かしつけた筈の晴音が起きて来た時にはどうしようかと思ったが、もしかしてこれは晴音を連れて来て正解だったのかもしれない。彼女と二人きりで夜道なんて歩いたら、雪都は何かとんでもないことを言い出してしまいそうな気がする。
好きだとか、好きだとか、好きなんだとか。
言うつもりはない、今のところ全くない。彼女が誰を見つめているのか、雪都は嫌になるくらい知っている。
崇のことを笑えない、片想いなのは雪都だって同じだ。首尾よく彼女を横から攫えたのは、ただ単に家が近いというだけの理由だ。それに、幼馴染というのもいくらかプラスに働いているだろうか。
どちらにしろ、恋とは関係ない。
「あ?えっと、あ、あ、あ……あるまじろ!」
「アルマジロ?晴音ちゃん、難しいの知ってるね」
「ろ、だよ、みゅうちゃんの番」
「ロケット」
「と?と、と、と、となかい!」
動物シリーズなのか、妹よ……別にどうでもいいけれど。
いつの間にか、美雨と晴音はしりとりを始めたらしい。半月ほど前に数時間ほど一緒に過したことがあるだけなのに、二人はもうすっかり打ち解けているようだ。
人見知りする晴音がこれだけ懐くなんて珍しいなと思いながら雪都は、晴音に向けられている美雨のとろけそうに優しい横顔を見ていた。小学校の頃は保育園の先生になりたいと言っていたけど、今でもそうなのだろうか。希羅梨情報によれば、美雨は明条大の教育学部志望らしい。教育学部の幼児教育科に進んで、保育士になるつもりなのかもしれない。
「石」
「いし?じゃあ……しまうま」
「マシュマロ」
「ろば!」
やっぱり動物から離れないんだな、妹よ……ホント、どうでもいいけど。
「馬車」
「ばしゃ?ばしゃってなあに?」
「んーと、馬車っていうのはね、お馬さんが引く車のことだよ。昔は自動車がなかったから、馬車に乗ったてたの」
「へえ……じゃあ、次は 、しゃ?えっと、しゃ、しゃ、しゃ……」
どうやら『しゃ』のつく言葉が思いつかないらしく、晴音は助けを求めるように雪都の方を振り返った。大きな目が「お兄ちゃん、教えて」と、無言で訴えて来る。
「晴音、クリスマスに親父とお袋が飲んでた酒の名前、知ってっか?」
「あ、知ってる!しゃんぱん……て、『ん』がついてる!」
「じゃあな、こんな楽器知ってるか?前にテレビで、着物を着たおばさんが弾いてたろ」
そう言いつつ、楽器を構える仕草をして見せる雪都に、晴音が首を捻る。そんな二人を見て、美雨がくすくすと笑った。
「しゃ、のつく楽器だぞ、晴音」
「しゃ、しゃ、しゃ……」
「しゃ、み」
「あ、しゃみせんだ!」
堪らず、ぷーっと美雨が吹き出した。晴音の負けだなと、意地悪な兄に言われて初めて晴音は、『三味線』にも『ん』がついていることに気づいた。
「負けたのは、お兄ちゃんだもん!」
「俺、参加してないし」
「みゅうちゃん、お兄ちゃんが意地悪する」
「ホント、永沢くんは意地悪だねぇ」
頬をぱんぱんに膨らませて怒っている妹と、くすくすと笑っている彼女。空には丸い月が浮かび、何から何まで満ち足りている夜だった。
お兄ちゃんのバカと舌を出す妹に、へえへえと適当に答える。空気は湿っぽく、夏の匂いがする。もうすぐ暑くなるんだなと雪都は思った。
「お兄ちゃん、はい」
「あ?」
「手!」
晴音が、美雨とつないでない方の手を雪都に向って突き出している。言わずと知れた、手をつないでという催促だ。
「……」
「お兄ちゃん、手!」
「中森、腕に力入れとけよ」
「え?」
雪都が晴音の手を取った瞬間に晴音がアスファルトの地面を蹴っていた。キャーと、雪都と美雨の間でぶらさがる。いきなり腕にかかってきた晴音の体重に、ガクンと肩が落ちて美雨は思わずよろけた。そんな美雨に構わず晴音は大はしゃぎだ。
「晴音ちゃん、重いー」
「ぶらぶらして!」
「中森、このままこいつ、捨てに行くぞ」
「だめーっ」
慌てて地面に足をおろした晴音が、兄に向ってバカだの意地悪だのオタンコナスだの叫んでいる。それを見て、美雨はまたもや盛大に吹き出した。
学校では女の子たちの憧れの塊のような永沢雪都が、妹をからかって遊んでいる姿なんてそうお目にかかれるものではないだろう。もしかしたら私だけが見たのかもと思って、そんな筈ないかと美雨は考え直した。
自分だけの筈がない、雪都の彼女である希羅梨が見たことないなんてあり得ない。
ズキッと、胸を走った痛みには気づかないふりをして美雨は笑った。ギャーギャーと叫んでいる晴音の声が夜のしじまに溶けていった。