107 鳶に油揚げ
中森さんと崇が声をかけると、美雨はいつも通りににっこりと微笑んだ。やっぱり可愛いと、もう何百回思ったかわからないことをまたもや崇は思ってしまった。
本当に、どうしてこんなに可愛いのか。神様のいたずらにしても度を越していると崇は思う。
「一緒に帰ろう、中森さん」
「うん、いつも送ってくれてありがとう」
「どうせ通り道だから、全然かまわないよ」
通り道というのは、真っ赤な大嘘だ。崇が住んでいる坂上町は、立花ゼミから辛うじて徒歩圏内ではあるが、美雨の家とはまるで方向が違う。バスの路線ともずれているため仕方なく崇は週に二度、美雨を家まで送り届けてから夜道をたっぷりと一時間近くもかけて歩いて帰っているのだ。
最後の授業を終え、ぞろぞろと帰って行く生徒たちの中に混じって、崇と美雨は並んで階段を降りた。三年になって急に受講生が増えたようで、なかなか前に進まない。しかし、崇にとってこの渋滞は嬉しいものでしかない。二人きりで歩く夜道もいいけれど、暗くて美雨の顔がよく見えないのが難点と言えば難点だった。
「月曜日は、一人で平気だった?」
「あ……うん、大丈夫だったよ」
美雨のこの答えは、半分嘘だが、半分は嘘ではない。夜道が恐くてパニックを起こしてしまったが、彼が駆けつけてくれたから大丈夫だった。だから、帰り道の前半は大丈夫ではなかったけれど、後半は大丈夫だったということだ。
雪都の自転車の荷台に乗せてもらって美雨は、怯えることなんて何ひとつなかった。不思議だった、どうして彼の傍はあんなに安心できるのだろう。
「それより、どなたが亡くなったの?」
「母の妹だよ、僕から見たら叔母さん」
「じゃあ、まだお若かったんじゃ?」
「そうなんだ。母の家系はどうも体が弱い人が多くてね、うちの母もあまり丈夫な方ではないんだ」
「そうなの?心配だね」
「大丈夫だよ。すぐに熱を出して寝込むけど、大事には至らないから」
「でも、気をつけてあげないと。時田くんて確か、一人っ子だよね?」
「そう、一人息子。二人目を産むのは、医者に止められたんだってさ。僕を産む時も危険だったらしい」
「そっかぁ、じゃあ尚更お母さん、大切にしないと」
「うん、早く大学に行って、いい会社に勤めて安心させてやりたいと思っているよ」
「孝行息子だね、時田くん」
「そんなことないよ」
早く大学に行って、いい会社に勤めて、そして可愛いお嫁さんを貰って安心させてやりたいと思っている。崇の頭の中に描かれている未来予想図では、美雨が純白のウエディングドレスを着て微笑んでいた。
崇がそんなつもりでいるなんてほんの少しも思っていない美雨は、「時田くんのお嫁さんになる人は幸せだよ、時田くん優しいもん」なんて際どいことを無邪気に言ったりする。その幸せな人は君だよと思いながら、崇は美雨に笑顔を返した。
彼女を守り、幸せにすることが僕の役目だ。
大丈夫、僕はやれる。絶対に彼女を幸せに出来る。
ゆるゆると人の波は動き、ようやく予備校の玄関口まで辿りついた。閉まる暇のない自動ドアを通って外に出ると、真正面に大きな満月が見えた。
今夜は明るい、これなら夜道でも彼女の顔が見えるなと思いつつ崇は予備校前の数段の階段をおりた。
そして、そこで足を止めた。
「……」
永沢くんと、小さく呟いた美雨の声と、ガードレールに腰掛けている見覚えのある男。明るい月の光を受けて、薄茶色の髪が白く輝いて見えた。
「あ、みゅうちゃんだ!」
「え、晴音ちゃん?」
雪都の傍に立っていた幼稚園児くらいの少女がぴょんと飛び上がったかと思うと、ぱたぱたとこちらに向けて駆けて来た。崇が呆然としている間に美雨の腰のあたりに抱きつく。
「お兄ちゃーん、みゅうちゃん、いたよー」
「おー」
お兄ちゃんと呼ばれて永沢雪都がガードレールから腰をあげたということは、この少女は永沢雪都の妹なのだろう。そう推測して崇は、美雨の腰に抱きついている晴音をまじまじと見た。
成る程、永沢雪都の妹だという証拠に日本人らしからぬ髪の色をしている……いやいや、今、崇が考えなくてはならないのはそんなことではなくて、どうしてこんな所に同じクラスの永沢雪都がいきなり出現したのかということだろう。
「え、まさか、迎えに来てくれたの?」
「まさかって何だよ、それ以外ないだろ」
「だって……」
美雨に横目でちらりと見られて、崇は思わず背筋を伸ばした。何がどうなっているのかさっぱりわからないが、とりあえずあまり好ましくない事態だということだけはわかる。
「時田、お前の家は坂上町だろ?遠いんだから、真っ直ぐ帰れ。こいつは俺が送ってくから」
「え、あ……あ?」
「坂上町って……ええ、そうなの?時田くん、全然方向が違うじゃない!」
「え、あ、あれ?」
「ずっと遠回りしてくれてたの?やだ、どうしよう……ごめんね、時田くん。言ってくれたら良かったのに」
「う、あ、え?」
「ま、男なら誰だってそうすんだろ。礼言っとけ、中森」
「今までありがとうね、時田くん。すっごく助かった」
「……」
「みゅうちゃん、帰ろ」
「うん……って、晴音ちゃん!そんなに引っ張らないで」
「帰ろ、帰ろ!」
適当な節をつけて「帰ろ、帰ろ」と歌う晴音に手を引かれ、崇の想い人が遠ざかって行く。最後にぽんと肩を叩かれ顔をあげると、雪都がじゃあなと言った。いつも仏頂面の雪都が笑うのを、崇は初めて見たなと思った。