106 ビー玉みたいなまん丸な瞳
「そうしてグリーンは、立派な龍王になりました。そして、いつまでも幸せに暮らしました」
最後の一節を読みながらそっと覗き込むと、晴音は毛布を鼻まで引き上げて、固く目を閉じていた。
どうやら寝ているらしい。
雪都は、よっしゃ!と心の中で喝采をあげてから、そっと音をたてないように絵本を閉じ、枕元に置いた。それから、そっとそっと、細心の注意を払って布団から抜け出す。
枕元に置いてある携帯を掴むのも忘れない、ついでに携帯で時間を確認してみたら夜の九時半を少し過ぎたところだった。
どうやら間に合った、今から出ればゆっくり歩いても十時までには着ける。
今夜は自転車ではなく、歩いて行くつもりだった。自転車なんて使ったら、ものの数分で終わってしまう。背中に抱きつかれるのも捨てがたいが、今日は少しでも長く一緒に居られる方を選ぶことにした。
ゆっくりゆっくり襖を開けて、外に出てからまたゆっくりゆっくりと閉める。晴音の眠りはまだ浅い筈だ、小さな物音でも目を覚ましてしまうかもしれない。
まったく、何でこんな苦労をしなければならないのかと思う。晴音を寝かせるために雪都は、いつもは一度しか読んでやらない絵本を今日は三回も読み聞かせた。
頭の中でパタパタとチビドラゴンが飛び回ってる気がする。何でドラゴンなんだ、もういい加減にどうにかしてくれと思う。雪都は行かなくてはならないのだ、でないと彼女が送り狼に送られる。
まったくあいつは抜けてるよな。何が、時田くんが送ってくれるの、だよ。少しは男を疑え、あの天然が。いつも家で一人きりな癖に、どうして警戒心が育ってないんだ。どこまで抜けてんだよ、のほほんとしやがって。あの馬鹿が、馬鹿美雨が。
幸いなことに、どうやら時田は今のところ躾のいい狼らしい。でも、いつ牙を剥くかわかったものではない。
美雨の親は、大抵いない。あの家はいつも誰もいなくて、何か、例えばトイレ貸してなんて言われてあがり込まれたら最後だ。
下心、見え見えだろうが、気づけよ馬鹿美雨。
予備校の帰りはいつも時田崇と一緒だと美雨から聞いてから、雪都は今までその存在すら忘れ去っていた崇を観察してみた。
すぐにわかった、あれは美雨に惚れている。
何かと言うと、すぐに美雨に寄って来るのだ。席が近くなったから、会話も全部丸聞こえだった。
「中森さん、課題やって来た?」とか、「前に言ってた本、持って来たよ。返すのはいつでもいいから」とか。
崇が寄って来る度に、笑ってやるな、とか、追い返せ!とか、雪都は不毛にも念を送ってみたりしたが、当たり前だが美雨に伝わる筈もない。親しげに話している二人をあからさまに邪魔することも出来ず、情けないことに雪都は、斜め前の席でこめかみをピクつかせているしかなかった。
しかし、いくら何でも今日は黙っている訳にはいかない。
教室で話す程度なら目を瞑れるが、夜は駄目だ。絶対に駄目だ。
予備校は月曜日と木曜日だと、彼女は言った。だったら、今夜は予備校がある筈だ。時田崇のおじさんだかおばさんだかじーさんだかばーさんだかの通夜がない限り美雨は、いつ牙を剥くかわからない狼と呑気に帰る筈だ。
させるかよ!
少しだけ迷ったが、雪都はリビングの明かりをつけたままで行くことにした。万が一、晴音が目を覚ました時に真っ暗だと恐がるだろう。それに、防犯のためにもつけておいた方がいい。
こんな時間に五歳児を一人にして出かけるのだ。良心は痛む、だけど行かずにはいられない。
ごめんな、晴音。すぐに帰って来るからな。
それでも自転車は使わないのだけれど。
雪都は、ソファーの上に放り出してあった、晴音が絵を描くのに使っている落書き帳を一ページ破くと、それに大きく数字を書いた。雪都の携帯の番号だ。その番号の下に、おきたらこれにでんわしろと、全部ひらがなで書き添える。まあ、もう起きないだろうとは思うが、念のためだ。
そうして準備してから雪都は家の鍵を持ち上げた、携帯はジーパンの後ろポケットに突っ込んでから歩き出す。和室の前を通る時、少しだけ襖を開けて中を覗いてみた。晴音の頭の天辺だけが毛布からはみ出していた。
「ごめんな」
眠る妹にそう呟いてから、雪都は襖を閉めて玄関に向った。たたきに転がしていたスニーカーを履き、外に出る。夜空には、大きな白い月がぽっかりと浮かんでいた。今年の梅雨はもうそろそろ明けるのだろうか、空気に僅かだけど夏の匂いが混じっている。
ほっと息を吐いてから、雪都は鍵をかけるためにドアの方に向き直った。そして、その瞬間に硬直してしまった。
ガシャッと音がして、内側からドアがすっと開く。雪都が呆然と見つめているその先に、晴音のビー玉みたいなまん丸な瞳がにゅっと覗いた。