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105 さみしいくらいでちょうどいい


 一人の部屋に帰るのは、今でも少し寂しい。

 古い小さなアパートが兄と暮らしていた頃そのままなのは、引っ越し代もなければ、インテリアを変える余裕もないのだから仕方ないことではあるけれど。

 西日に透ける若草色のカーテンに、椅子を引きずった跡がついてしまったフローリングの床。ポスターを貼っていたためにそこだけ色の違う壁紙に、コーヒーをこぼしたシミのあるセンタ-ラグ。

 あちらこちらに兄の影が残っているのは、どうしても寂しい。この部屋で待っていても、ただいまと帰って来る人はもういないのだから。


 希羅梨は部屋に帰ると、自分だけ世界の流れから切り離されたような気がして不安になる。いや、部屋にいる時だけではない。学校にいても、街を歩いていても希羅梨は孤独を感じる。自分一人だけ上手く流れに乗れずに浮いているような、そんな錯覚。


 ただいまと、答えてくれる人は誰もいないと知っているのに声に出してしまうのは、もうただの習い性になってしまっている。最初の頃は、誰も答えてくれないからと黙って部屋に帰るのも寂しい気がしてわざと明るい声をはりあげていたのだが、今ではただの習慣だ、そこに意味は何もない。


 帰るとすぐに希羅梨は、熱い紅茶を淹れるためにやかんを火にかける。これも習慣になっている。そして、湯が沸くまでの間に制服から部屋着に手早く着替えることにしている。

 暮らしにゆとりはないけれど、だけど希羅梨は好きな紅茶だけはいい葉を買うことにしているのだ。

 朝、一日の始まりにおいしい紅茶を飲み、学校から帰って来て、疲れを癒すための一杯を自分のために淹れる。一人分の小さなティーポットにその日の気分で選んだ茶葉を放り込み、ゆっくりと蒸らす。大抵はストレートで飲むが、たまにミルクを入れたりレモンを入れたりしてみる。それが希羅梨のささやかな楽しみなのだ。


 今日は、アールグレイのミルクティーにしてみた。

 少し癖のある香りがミルクとまろやかに溶け合う。


 テーブルに座って、おいしい紅茶をひと口飲んでみたけれど何か物足りない。クッキーか何か食べたい、サクサクしてるのがいい。ナッツ入りとか希望、お茶菓子はなかっただろうか。

 希羅梨が戸棚に何か残ってなかっただろうかと立ち上がった時、インターホンが鳴った。どうせこのところしつこくやって来る新聞の勧誘だろうと、うんざりしながらインターホンの受話器を取った希羅梨は、耳に飛び込んで来た「俺」の一言に思いきり飛び上がって、ソックスをはいた足を滑らせて危うく転ぶところだった。思わず食器棚に手をついて倒れそうになった体を支えたから、食器棚の扉にはめ込まれたガラスがガタガタと結構派手な音を立てた。どうかしたのかと問う、受話器の向こうの和馬に何でもないと答えた時、希羅梨の声はそれは見事に裏返ってしまった。


 「何か、すげえ音したけど」

 「あははは、何でもないです」

 「そうか?」


 実際、皿の一枚も割れてないのだから何でもないというのは嘘ではない。慌ててドアを開けて、そこに立っていた和馬を見上げて希羅梨は、足の先から頭の上まで一瞬にして走り抜けた熱いものにのぼせた。

 どうして和馬が希羅梨の部屋に来たのかとかそんなことよりも、丈の長いTシャツにスパッツなんて部屋着ではなく、もっと可愛い服を着ておけばよかったなんてことの方が気になった。

 髪は乱れてないだろうか?学校から帰って来たまま、まだ梳かしてもいない。


 「これ、サンキューな」

 「わざわざ持って来てくれたの?」


 和馬がぬっと差し出したのは、希羅梨の紫陽花の傘だった。数日前に和馬に貸した物だ。


 「学校に持って来てくれてよかったのに」

 「俺に女物の傘を学校に持って来いと?」

 「え、気にするんだ?」

 「何だよ、その意外そうな顔は」


 本当に意外だったのだが、希羅梨は「へへへ」と笑って誤魔化した。傘の柄なんて、全く気にしない人だと思っていた。和馬の新しい一面を知ったような気がして嬉しい、体が熱くなる。


 「それと、これは美和から。クッキーだと」

 「えええっ、美和ちゃんすごい!今ね、ちょうどクッキーが食べたいなって思ってたとこなの」

 「そうか?ナッツクッキーつってたぞ」

 「益々すごい、ナッツクッキーが食べたいなって思ってたの」


 キャーキャーと嬉しそうにクッキーの袋を受け取る希羅梨を、和馬は目を軽く見開いて見ていた。眉間の皺が思わず消えているのは、クッキーくらいでこんなに喜ぶのかと少しばかり驚いてしまったせいだ。セスナだったら、絶対にこんな反応はしない。ありがとうと、きちんと礼を言って受け取るだろうが、キャーとは言わない。


 「それと、美和から伝言。スコーンの作り方、教えて教えて。希羅梨ちゃんの都合のいい日でいいからね、待ってまーす、だと」

 「それ、そのまま伝えてって言われたの?」

 「おう。しかも、語尾にハートつきだとよ」

 「ハートつきなんだ?」

 「ピンクな」

 「色指定つきなんだ!」


 可笑しいと、弾かれたようにきゃらきゃらと笑い出した希羅梨に、和馬は更に目を丸くする。希羅梨にしてみれば、言われた通りに美和の伝言を伝える和馬の律儀さが可笑しいのだが、和馬にしてみれば自分が笑われているとはわかっていない。だから、美和の伝言のどこにそんなに笑える要素があったのだろうかと、頭をひねってみたりした。ハートか、やっぱりピンクのハートがウケたのか。


 「お前……」

 「ん?」

 「や、何でもねえ」


 お前、雪都と一緒の時もそんなに笑うのか?


 飲み込んだ質問に、和馬はがしがしと頭を掻いた。

 自分は一体、何を訊きたいのだろう……いや、あの仏頂面の友人が、このコロコロとよく笑う彼女をどうあしらっているのか興味があるだけだ。一緒に笑ったりするのだろうか、あの雪都が?あり得ねえなと勝手に結論を出してから、和馬はじゃあなと希羅梨に軽く手を上げて見せた。


 アパートの階段をトントンと降りて行く、和馬の背中が見えなくなるまで希羅梨は見送った。夕暮れの風がふわりと吹いて、希羅梨の髪を揺らした。

 そして、和馬が見えなくなってから部屋に戻り希羅梨は、飲みかけの紅茶の横に美和からもらったクッキーの袋を置いた。美和の手作りらしいクッキーはサクサクだった、ナッツ入りだった。希羅梨が食べたかった味だった。


 ナッツクッキーをサクサクと食べて、アールグレイのミルクティーを飲む。

 美味しい、悲しいくらい美味しい。

 あまりに美味しいから、泣けて来る。


 つーっと頬を伝った一筋の涙を拭うこともせず、希羅梨はクッキーを食べた。本当に美味しいと思った。


 傘なんて、届けに来ないで。気軽に笑ったりしないで。喜んじゃうから、馬鹿みたいに嬉しくなってしまうから。


 さみしいくらいでちょうどいい、恋の熱さを知らなければ寒さも感じないはしないから。


 体の奥底からこみ上げて来るものを全て受け止めて、希羅梨はクッキーを食べた。サクサクと、誰もいない部屋にクッキーの砕ける音がしていた。



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