102 幸せな女の子
「右京先生の授業って、鉛筆デッサンが多いよね。飛鳥井さん、デッサンは得意?」
「どうだろう?私は好きなのだが、和馬はド下手だとぬかす」
「へえ……でも、飛鳥井さんは絵を描くの、好きなんだ?」
「ああ、好きだな」
「私も好きなんだ、少女漫画みたいな絵しか描けないんだけど」
美術室に向って、美雨と並んで廊下をゆっくりと歩きながらセスナは、実はかなり緊張していた。美雨とはもう友人と呼んで差し支えない程度には親しくなれたと思う、それなのにセスナはまだ美雨の両親と会ったことを美雨には話せないでいたのだ。
これはおかしいだろう。別に秘密にしなくてはならないようなことではないのだから、話さない方がおかしい。
セスナは、ほんの少しだけ会話が途切れたチャンスを逃さないよう慌てて、「中森殿」と固い声で美雨を呼んだ。
「中森殿、あの、実はな……」
「ね、飛鳥井さん。殿なんてつけなくていいよ。姫宮さんを呼ぶみたいに、呼び捨てにして?」
「え?う、あ……そそそ、そうか?」
「そうだよ、同い年なのに殿付けなんて変だもん」
「そうか、そういうものなのか」
セスナは、うーむと唸ってから、それならと言い直そうとした。だけど、希羅梨を『姫宮』と呼ぶようには、美雨を『中森』と呼び捨てにするのは抵抗がある。希羅梨と美雨ではつき合いの長さが違うからではない、中森という名はセスナにとって、憧れの人の名なのだ。
「……駄目だ、どうしても呼べぬ。尊敬している方と同じ苗字を呼び捨てにすることなどできぬ」
「尊敬している人?」
「そう、中森栄殿だ」
「え……それ、もしかしてうちのお母さんのこと?」
「そう、『polka dots』のデザイナー、中森栄殿だ。あの素晴らしい服の数々をデザインされた、最高のデザイナーだ」
セスナの力のこもった賞賛に、美雨の口はぽかんと開いた。今まで、母が『polka dots』のデザイナーだと言ったらいいなとか、すごいとかは言われるが、こんな風に母自身を褒められたことは一度もない。
「実はな、少し前に『polka dots』の本店と事務所を見学させていただいたのだ。ご両親は、何も仰られてなかったか?」
「聞いてないよ!もう、お母さんたら、どうしてそんなこと教えてくれないんだろ。ねえ、それっていつぐらいのこと?」
「先週の土曜日だ」
「ええー、お母さん、何度か帰って来たのに聞いてない」
「見学が来たことなどたいしたことではないから、忘れておられるのだろう」
「それにしたって、飛鳥井さんだよ?私のクラスメートが来たんなら、教えてくれたっていいと思う!……あ、もしかしてお母さん、私のことを訊かなかった?学校でどんな風ですかとかって」
「おお、訊かれた。中森殿が友達と仲良くされているかどうか、気にしておられた」
「もう!前にね、あゆみちゃんと澪ちゃんにも同じようなことを訊いたんだよ。家に遊びに来てたあゆみちゃんと澪ちゃんに、私が学校でどんな風ですかとかってしつこく訊くの。もうもう、嫌になっちゃう」
「中森殿は一人娘だから、心配なのであろう」
「だってもう、高校生だよ?お友達と仲良く出来てますかなんて、小学生みたいなことを訊かないで欲しいよ」
唇を尖らせてぷりぷりと怒っている美雨を、セスナは静かに見つめた。
羨ましがるのは、違うと思う。
両親がちゃんと揃っていて、娘の心配をしてくれる。だけどその心配を、当の娘は鬱陶しがる。ごく当たり前の親子関係だ、美雨が特別な訳ではない。だけど……。
「デザイン画をたくさん見せていただいた、素晴らしいな」
「そうなの?」
「ああ、夢のようだった」
「へえ……あ、じゃあ、飛鳥井さんてデザイナーを目指してるの?」
「…………いや」
「違うの?」
「ああ、違う。大学は、英文科に進もうと思っている」
「そうなんだ」
「ああ」
羨ましがるのは、違う。
両親が揃っているなんて、当たり前のことなのだ。美雨が特別にラッキーな訳ではない。
「中森殿は、ご両親の跡を継ぐのか?」
「そんなこと、考えたこともないよ。私は教育学部に行って、先生になるつもり」
「しかし、『polka dots』は、人手不足なのでは?」
「へえ、そうなの?」
「……」
羨ましい訳ではない、妬ましい訳でもない。子供が親の仕事に無関心なことなど、珍しいことではない。ましてや、子が親の跡を継がなければならないなんて時代もとうに過ぎ去った。
「そうだ、お母さんのデザイン画なら家にもあるよ。見に来る?」
「い、行っても良いのか!」
もちろんだよと笑う美雨に、セスナは眩しそうに目を細めた。
羨ましい訳ではない、そうではないと何度打ち消してみても、セスナの目に美雨の笑顔は、キラキラと眩しすぎて痛かった。