100 ありがとうを言わせて
また今朝も遅刻寸前の本鐘の鳴る数分前に登校して来て、斜め前の席にどさっと座った幼馴染の後ろ姿を美雨は食い入るように見つめた。
今日は、「はよ」っと言ってくれなかった。
言ってくれたなら切欠が掴めただろうに。
お礼を言わなければならないと思う、昨夜のお礼だ。
昨日の夜、予備校の帰りに誰かにつけられているような気がして恐くて、美雨は咄嗟に彼に電話してしまったのだ。彼は、本当にすぐに来てくれた。いくら家が近いとはいえ、逃げ込んだコンビニの商品棚の間で美雨が震えていたのは、ほんの数分にすぎなかったのだ。
ものすごい勢いで駆け込んで来た彼に美雨と下の名前で呼ばれて、スーッと体の力が抜けた。
美雨と、彼は二度だけ子供の頃の呼び方を使った。その後は、いつもの中森呼びに戻っていたけれど。
彼の影に隠れて外に出てみたら、あんなに恐かったのが嘘のようにいつもと何もかわりない普通の夜が広がっていた。美雨を見ている者など誰もいない、つけられているなんて美雨の思い込みだったのだ。
不審者を探しているのだろう、用心深く辺りを見回していた彼に、私の思い過ごしだったみたいとは言えなかった。ごめんなさいと小さく謝ったら、何で謝るんだと切り返された。気に入らないそうな目で見られて、やはりごめんなさいと謝ってしまった。勘違いでこんな時間に呼び出して、迷惑をかけてしまったんだと思うと消えてしまいたいほど恥ずかしかった。
雪都は横倒しにして乗り捨てていた自転車を起こすと、美雨に「乗れ」と言った。この自転車に乗せてもらうのは三度目だなと、荷台に座る時に美雨は思った。「しっかりつかまってろ」と言われて、美雨は彼が座っているサドルの連結部分に指を絡ませた。だけど彼は、「そんなんじゃ落ちる」と言って、美雨の手首を掴んでぐいっと引いた。
「俺につかまってろ、それならお前が落ちそうになったらすぐにわかる」
腕を引っ張られ、美雨は硬直してしまった。彼が美雨の腕を自分の腹にまわさせたから、美雨は彼の背中に抱きつくことになった。
いくぞと声をかけてから、彼はゆっくりとペダルを漕ぎだした。梅雨時の夜風は湿っぽく、二人にまとわりついて来るようだった。
カタン、カタンと、小さな音をたてながら自転車は走る。そんなにしっかりつかまってなくても振り落とされる心配はなさそうだった、だけど美雨は雪都の背中にしがみつくように腕に力を込めた。
暖かくて、ぬくもりをもっと引き寄せたくて、自分でも気づかないうちに腕に力が入る。
美雨と、また呼んでくれないかなと思った。中森ではなく、昔みたいに名前を呼び捨てにして欲しいと思った。
歩いても五分ほどしかかからない距離は、自転車だとほんの瞬くほどの時間で着いてしまった。灯りの点いていない美雨の家を見上げて、「親、相変らず忙しいんだな」と彼は独り言のように呟いた。
「お前、親が帰って来るまでうちに来るか?晴音を一人で置いて来ちまったからいてやる訳にはいかねえから、お前がうちに来い」
そう言われて、美雨は驚いてしまった。家で一人なのはいつものことだから、そこまで心配されるとは思わなかったのだ。だけど彼は変質者がまだ近くでうろついているかもしれないと思ったのだろう、また真剣な顔で辺りを見回している。
誰かにつけられていると言ったのは思い過ごしでしたとはどうしても言えなくて、美雨は慌てて笑って見せた。
「平気だよ、家にいれば大丈夫。一人なのは、子供の頃から慣れてるもん」
ちゃんと鍵かけるから、平気平気と笑って見せる。本当に平気そうに見えますようにと願いながら。
「晴音ちゃん、一人なんでしょう?早く帰ってあげて、私は平気だから」
『平気』と『大丈夫』をしつこいほど連発したら、彼は渋々ながらに頷いた。何か少しでもおかしいと思ったらすぐ電話する、何時でも絶対に電話すると美雨に約束させてから、何度も振り向きながら帰って行った。彼の薄茶色の髪が闇にとけて見えなくなってから美雨は、ありがとうを言い忘れたことに気づいた。
ごめんなさいは言ったけど、ありがとうは言ってない。
斜め前の白いシャツの背中を見ながら美雨は、決心したようにうんと、ひとつ頷いた。
手を伸ばす、届く。斜め前なんて、ほんの少し身を乗り出しただけで届いてしまうほどしか離れていない。
指先でトンと背中を押せば、雪都はすぐに気づいて振り向いた。
もうすぐ本鈴が鳴る、先生が朝のホームルームのためにやって来る。生徒たちは皆それぞれの席に着いていて、ざわめきが静かなうねりになって聞こえていた。
美雨は、周りに聞こえないように小さな声で昨日はありがとうと言った。雪都は、グレーがかったの目を僅かにすがめた。
「あれから何もなかったのか?」
「うん、全然平気だった。ご免ね、晴音ちゃんは大丈夫だった?」
「あいつは、一度寝たら雷が落ちても起きねえからな。帰ったら、イビキかいて寝てた」
「そっか、よかった。お兄ちゃんがいなくて泣いてなかったかなって、気になってたんだ」
本当にほっとしたのだろう、ふふっと笑う美雨を雪都はじっと見つめた。雪都の胸の内にある想いの重さを、美雨は知らない。
「……お前、予備校は月曜だけか?」
「ん?」
「予備校だ、週に一度じゃねえんだろ」
「あ……うん、月曜と木曜だけど」
「どこだ?予備校」
「えっと、立花ゼミ」
「郵便局の隣か、角が花屋の」
「うん、そうだけど」
「終わるのは、十時か?」
「うん……あ、迎えに来てくれなくて大丈夫だよ!いつもは時田くんと一緒に帰ってるから」
「時田?」
「そう、予備校でも同じクラスなんだ。帰る方向が同じだからって、いつも家の前まで送ってくれるの。昨日は時田くん、お休みだったんだけど、さっき訊いたら親戚が亡くなってお通夜に行ってたんだって」
雪都は視線を巡らせて、窓際の真ん中あたりに座っている痩せた長身の男の方をちらっと見遣った。
時田崇、クラスの中では目立たない存在だ。もう二ヶ月近く同じクラスな訳だが、雪都は時田と喋った記憶すらない。
「あいつの家って、近いのか?」
「そうなんじゃないかな、どこかは知らないけど」
雪都と美雨は同じ町内で、小学校も中学校も同じ校区だった。だけど、時田は小学校も中学も同じ学校ではなかったと思う。小学校の校区は狭いが、中学の校区はそれなりに広いのに。
雪都が気に入らなそうに再び窓際に視線を向けた時、ガラリと戸が開く音が聞こえた。おっはよーと、担任の来栖涼華が無駄に元気な声を張り上げる。
「はーい、今日は全員出席よね。出席取るのサボるから、欠席者は手を挙げて!」
などと無理なことを明るく言い放って、生徒たちの笑いを誘う。
「こら、永沢!前を見ろ。つーか、私を見なさぁーい」
「なんでお前を見なきゃならないんだよ」
「おニューのスーツ、どう?」
「どこのホステスかと思った」
「銀座に決まってんじゃない、私は高いわよぉ」
爽やかな朝の学び舎には到底似つかわしくない軽口を叩いておいてから、涼華は連絡事項を早口でまくし立て出した。中には重要な知らせもあるので、生徒たちは自ずと涼華に注目する。雪都も本意ではないのだろうけれど、最前列の席では前を向かざるおえない。ぽんぽんと飛び出す涼華の軽口に、面倒臭そうに相手をしている。
美雨は、そんな雪都の背中を見ていた。教卓の方を向けば、美雨の位置からではどうしても雪都が目に入る訳だが、そうではなくて美雨は雪都を見つめていたのだ。
どうしてだろう、彼がそこにいるだけで安心できる。この世に恐いものなんて何もないと、そう思える。
幼馴染だからだろうか。幼い頃にいつも一緒にいた、ぬくもりをまだ覚えているせいだろうか。
昨日は遅い時間だったのに、ほんの数分で駆けつけてくれた。その上、美雨が驚いてしまう程に真剣に心配してくれた。
いつでも電話していいんだと、そう思うだけで昨日はぐっすりと眠れた。守られている、そんな風に感じてしまった。
どうしてだろう?
彼は確かに幼馴染だけれど、今ではもう友達とさえ言えないような間柄なのに。
なのに、彼が傍にいてくれるだけで安心できてしまう。
傍にいたい、傍にいて欲しい……彼には、可愛い彼女がいるのに。
廊下側の一番後ろ。前は美雨の席だったそこに座っている希羅梨の方を美雨は見ることが出来なかった。
違うから、そんなんじゃないから。
私が好きなのは、阿久津先生だから。
誰に言い訳しているのかわからないまま、美雨は心の中でそんなことを繰り返し呟いていた。
100話目です!
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
続きもお付き合いいただけましたら、嬉しいです。
いいねをポチっとしてくださる方、本当にありがとうございます。
お一方でもいいねしていただけたら、最後まで頑張ろうと思います。
連載を始める前は、さっさと全話予約投稿してしまって他のを書こうと思っていたのに、これがなかなか進みません。
翌日の分を前日の夜に投稿してたりします。
なんとか途切れないようにしなければ!