99 こわれたオルゴール
優介は最近、母はまるで壊れたオルゴールのようだと思う。何かの拍子にシリンダーの突起が破損して、同じパートばかりをぐるぐると演奏するようになったオルゴールだ。
早く結婚して、私が生きているうちに孫の顔を見せておくれ。
この数ヶ月間で、何度同じことを言われただろうか。あれだけ同じことを言い続けるパワーがあるなら、あと十年くらいは軽く生きるだろうと優介は思う。少なくとも、癌細胞ごときには負けないだろう。それが証拠に転移したとはいう話は、ありがたいことにまだ聞いていない。
ハアッと大きな溜息をつくと、お疲れですかと穏やかな声が降って来た。珈琲専門店『cafe marron』のマスターである手塚柾は、長い黒髪を後ろで一つに結んでいる物静かな男だ。
「ああ、すまなかったね。もう閉店時間だろう?わかっていたのだけど、どうしてもマスターのコーヒーが飲みたくなってしまってね」
「構いませんよ、阿久津先生なら真夜中でもお淹れします」
「真夜中のコーヒーか、マスターのコーヒーならとても贅沢な眠気覚ましになるね」
手塚のコーヒーに惚れ込んで店を手伝っている田之倉慧一が、シャッターを閉めようとしているところに優介はやって来たのだ。手塚は優介を快く店に招き入れ、慧一には店を閉めて帰るよう指示した。
「お待たせしました」
「いい香りだ、やはり目が覚めるようだよ」
「恐れ入ります」
優介は目の前に置かれたカップを持ち上げ、まずはその美しい陶器を眺めた。繊細な青い花模様は、ロイヤルコペンハーゲンの逸品だ。
「こんな高価なカップを店で使ったら、割れてしまうだろう?」
「いえ、うちのお客様は皆さんコーヒーと共にカップも愛してらっしゃいますから、とても丁寧に扱ってくださるのでほとんど割れないのですよ」
「コーヒーと共にカップも愛す、か。美しいね」
香りを楽しみながらゆっくりとコーヒーを味わう優介に、手塚は僅かに口元をほころばせた。この店にはいわゆるコーヒー通と呼ばれる人が多く通って来るが、優介ほど深くコーヒーを理解して飲んでくれる客はそう多くはない。
「そういえば先週……でしたでしょうか、可愛いお嬢さんに阿久津先生はいらしてないんですかと訊かれましたよ」
「可愛いお嬢さん?」
「ええ、しかもお二人も。阿久津先生も隅に置けませんね」
「おいおい、からかうものじゃないよ。生徒だろう、この辺りに住んでいる者も多いからね」
「それは生徒さんでしょうけど、でも生徒さんは生徒さんでも、阿久津先生に憧れている生徒さんでしょう?」
「その可愛いお嬢さんたち、一人は髪をおだんごにしていたかい?」
「さあ、どうでしょうか」
静かに微笑む手塚に優介は、「おっと、これは失礼」と頭を軽く下げた。
流れるようにコーヒーを淹れる手付きを見る限りは信じられないことだが、手塚は目が見えていないのだ。生まれながらの全盲で、色の名前は知っていても、その色自体は知らないらしい。
女性客が来れば、その声で若いかどうかぐらいはわかる。だけど、髪型まではわかる筈ない。手塚の言う可愛いは、可愛い声のお嬢さんという意味なのだ。
「すまないね、君を見ているとつい忘れてしまうんだよ。とても見えてない風ではないからね」
「自由に動けるのは、自分の部屋と店の中だけですよ。慣れていますからね、どこに何があるのかは体が覚えている。田之倉くんもそのあたりはよく心得ていて、使った物は必ず元の位置に戻してくれていますし」
「田之倉くんか、いい青年だね」
「はい、とても」
ゆったりと心地よい時間の流れに意識を遊ばせながら、阿久津はゆっくりとコーヒーを味わった。
優介の住むマンションはここからすぐ近くで、また今日も郵便受けには見合い写真の入った茶封筒が突っ込まれてるんだろうと思うといささか気が萎えるが、けれどとりあえず今は忘れて美味しいコーヒーを楽しむ。
彼女も、この美味しいコーヒーを飲んだのだろうかと優介はふと思った。おだんご頭の可愛いお嬢さんは、手塚のコーヒーを気に入っただろうか。