後編 穴の中の暗闇
僕はケガは負ってしまったものの、まだ生きていた。決闘に敗れた時点で監視人に処分されていてもおかしくなかったが、それまでの優秀な労働ぶりに対する評価もあって、このまま殺してしまうには惜しい人材と判断されたらしい。
鱗人間の救護係は、僕の折れたあばら骨をギブスで乱暴に固定し、そのあといかにも面倒臭そうな顔で馬用の痛み止めの注射を1本打った。とんでもなく痛い注射だったが、鱗人間に涙を見られるのは癪だったので、どうにか泣かずに持ちこたえた。医療措置はたったそれだけだった。
僕は10分後にはいつもと同じように「採掘場」に連れていかれ、痛む身体を抱えながら日暮れまで穴掘り作業に従事した。普段と違うのは、リーロイが山菜採りに出かけて不在だということだけだった。
幸いにも骨折の具合は作業ができないほどひどくはなかったが、この日を境に僕にとってはより重大な障害が生じていた。リーロイとの決闘に負けて以来、どういうわけか周りの奴隷たちが僕とまるっきり口をきいてくれなくなったのだ。
同じ檻内で生活している人たちも、よくおしゃべりしていた同年代の子も、一様に僕の姿を避け、視界に入れないようにしている。何度かこちらから奴隷たちに話しかけてみたが、他の人と話していて聞こえてないふりをする者もいれば、僕の姿が見えたとたんにさっと緊張し、あからさまに顔をそむける者もいた。念のため檻内のすべての奴隷に声をかけてみたが、まともに僕と会話をしてくれる者は皆無だった。
「一体、どうしたんだよ。監視人に僕と話すなって言われたのか?」
僕は奴隷たちを見渡して言ったが、もちろんその問いに対する返答もなかった。僕は困惑した。奴隷同士長いあいだ助け合いの精神でやってきたのに、急にここまで他人に冷酷になれるものなのだろうか。監視人にも奴隷にも仲間がひとりもいないとなると、そこに待ち受けるものは真の孤独だけだ。
ここは何としても皆の真意が知りたい。僕はある日、たっぷり世が更けてから行動に移した。時刻は夜中の2時、奴隷たちは昼間の労働に疲れてひとり残らずぐっすり眠りについている。
狭い監房内は、いびきの大合唱の様相を呈していた。僕はすっと寝床から起き上がると、音もなく三段ベッドから地上に舞い降りた。オレンジ灯がまともに顔に当たるが、入口にいる監守に気づかれた様子はない。監守の鱗人間だってこんな時間に奴隷が起きているとは夢にも思ってないので、まともに見張りをせず居眠りしてる場合が多いことを僕は知っていた。
僕はなるべく足音を立てないようにしながら、向かいにあるベッドに近づいた。標的は、そのベッドの1番下の段で寝ているクレバスという名の奴隷だ。本名はユウヤらしいが、奴隷の中では段違いに学があることから、賢い(クレバー)をもじってクレバスと呼ばれている。
僕が標的を彼に定めたのには、明確に理由があった。クレバスはたしかに博学だが、半面とても神経質で、怖がりなところがある。彼の性格ならばちょっと脅しただけで恐怖に耐えられなくなり、秘密を白状してくれる可能性が高い。加えて、三段ベッドの1番下ならば、脅している最中にベッドが軋んで周りの奴隷を起こしてしまう危険性も少ないだろう。
クレバスは死人のように毛布を頭までかぶって寝ていた。浅い呼吸に合わせて胸の辺りが規則正しく上下している。信仰深いタイプなのか、枕元にページが所々抜け落ちた新約聖書が置かれていた。あと、異様に長いロングヘアの、エプロン姿の女の子の人形も毛布の脇に置かれている。前に妹の形見だと聞いた記憶があるが、単なるロリコン趣味の可能性もある。どちらにしても、他人のプライベートにあまり興味はない。
僕は半ば覆い被さるようにしてベッドに乗ると、いつでも襲いかかれるように右手にナイフを構えた。金属製のナイフではなく、採掘場で拾った尖った石を少しずつ削って作ったお手製の凶器だが、やろうと思えば相手の喉をかっ切ることもできる。
「おい、起きろよ。かしこ少年」
僕は軽くクレバスの身体を揺すったあと、顔にかかった毛布を勢いよくめくった。目覚めるのに少し時間がかかるかと思ったが、彼はたちまち意識を取り戻し、僕の凶器を見て携帯のバイブみたいにブルブル震え始めた。
「ど、ど、ど、どうしたんですか? こんな夜中に急に」
「もうちょっと小さな声で喋れ。1回殺すぞ」
軽くすごんでみせると、たちまちクレバスはおとなしくなった。本気で殺すつもりはないが、本気で殺しかねないような雰囲気をかもし出すことはわりと得意だ。彼もこのあいだの決闘を見物していたので、僕に人を殺せるくらいの度胸があるのは知っている。
「いいか、聞かれたことにだけ答えるんだ。さもないと、シーツに大量の血液が付着することになる」
僕は切れ味を試すように、ナイフを宙で揺り動かした。クレバスは、血の気の失せた顔で素早く2回うなずいた。
「なぜ、お前たちは全員俺のことをシカトしてる? 一体、誰の指示で始めたんだ?」
クレバスは、どういう表現を使えば僕を激昂させずに済むかしばらく考えているように見えたが、結局ストレートに言った。
「軸回転が言い出したんです。たかやまっさんに睡眠薬を盛るような最低な男とは、もうつき合うべきじゃないって」
たかやまっさんを嵌めたのがバレていることにも驚いたが、軸回転の名前が出てきたのも僕にとっては意外だった。軸回転(元ダンサーだったことから、ついた呼び名)は、いつも自分だけの世界に入り込んでいる風変わりな人間で、他人に積極的に自分の意見を披露したり、正義感に訴えたりするようなタイプの人間ではない。
たかやまっさんの件で怒っているというが、そもそも僕は軸回転とたかやまっさんが話している姿を1度も見たことがなかった。彼らのあいだに友情があるとは考えづらかった。
「どうして軸回転が、たかやまっさんのことで俺に腹を立てるんだ?」
軸回転が同じベッドの最上段で寝ていることを鑑み、僕はより声をひそめてたずねた。
「知らないんですか」クレバスが目を見開き、衝撃を受けた様子で言った。最初にナイフを突きつけられたときよりも驚いている。
「知らない人間なんていないと思ってました。少なくともこの監房内では…」
「俺はまだ穴掘りの現場に来て、日が浅いんだよ」僕はいらつきながら言った。
「もったいぶらないで、さっさと理由を教えろ」
クレバスは緊張のあまり、一瞬だけ唇をなめた。それでも、打ち明ける覚悟をきめるのに10秒近く必要だった。
「あのふたりつき合ってたんですよ。監獄でよくあるホモ関係ってやつですね。下手に干渉すると今度は自分が性の対象として標的になるんで、皆知ってても知らんぷりしてました。たまに、何かが擦れる音がたかやまっさんのベッドから聞こえてきて、不気味でしたけどね」
「なるほどな」
僕は短い絶句のあと、つぶやいた。最終的にたかやまっさんは酒数本を盗んで酔いつぶれたという完全な濡れ衣によって処刑されてしまったので、軸回転が僕を恨むのはある意味当然だ。
「それでも、少し納得いかないな。軸回転にちょっと頼まれたくらいで、奴隷全員がこうも完璧に俺をシカトするものなのか? あいつにそこまでのリーダーシップがあるとは、予想外だよ」
「皆、心の中では軸回転を恐れてるんですよ。フカシギくんが来る前の話ですが、鱗人間たちが半ばストレス発散みたいな感じで嫌がらせで彼ばっかり鞭で打ちまくった日があったんです。普通、どれだけひどい仕打ちを受けても奴隷は耐えるしかないですよね? ところが、軸回転はよほど腹に据えかねていたのか、いきなり持っていたスコップで目の前にいた鱗人間の顔を思いっきり殴ったんです。やられた鱗人間は地面にひっくり返ったまま起き上がれず、そのまま病院送りになりました。そのときの凍りついた空気を、僕は今でもありありと思い出せます。とうぜん、その場の誰もが軸回転の処刑は免れないと感じましたが、そのとき現場監督を務めていた犬人間がKOされた鱗人間とたまたま不仲だったので、奇跡的に何のお咎めも受けずに済みました。それ以来、軸回転は周りの奴隷たちからある種の畏敬の念を持たれています。少なくとも僕にとっては、絶対に怒らせてはいけない存在です」
軸回転は穴掘り奴隷の中ではかなりひ弱な体格だし、作業も遅い部類だったので決して喧嘩も強くもないだろう。それにも関わらずこれほど皆に恐れられるようになるとは、よほど監視人に逆らった事件が周囲に衝撃を与えたに違いない。
「よくわかった。怖がらせて悪かったな」
僕はナイフを懐にしまい、そっとクレバスのベッドから離れた。知りたい情報はもう充分得られた。これ以上長話をしても、看守に見つかるリスクが増えるだけだ。
シカトの理由はよくわかったが、「首輪落ちして、ステイと結婚する」という最終目標を達成するためには、まだまだ円滑に奴隷生活を送る必要がある。障害の芽は早めに摘んでおいた方がいい。
僕は翌日の朝の穴掘り班分け中、さりげなく軸回転と同じチームに割り振ってもらうことに成功した。僕は午前中作業をしながらずっと横目で彼を観察していたが、軸回転はこちらの視線を痛いほど感じているはずなのに、うつむいたまま1度も僕と目を合わせようとはしなかった。やはり、面と向かってメンチを切ってくる勇気はないようだ。むしろ、シカトを指示した後ろめたさからか、いつも以上に大量の汗をかいていた。
午後になって監視人たちが監視の気を緩め始めたタイミングを見計らい、彼に話しかけた。僕は軸回転のすぐ隣に陣取り、彼の2倍近いスピードで穴を掘り進めていた。
「お前、俺のことをシカトするように皆に言ってるらしいな」
一瞬、軸回転はスコップの手を止めたが、何ごともなかったように穴掘りを再開した。しかし、顔に表れた動揺の色は、隠しようがなかった。
僕は作業に没頭しているフリを装いながら、話しかけ続けた。
「たかやまっさんのことは申し訳なかった。確かに彼を陥れたのは俺だ。山菜奴隷になって首輪落ちを目指すためには、彼を利用するしかなかった。まさか、処分されてしまうとは思ってもみなかったんだ。睡眠薬が想定以上に効きすぎてしまったらしい。本当は、ほんの少しのあいだだけ呂律が回らなくなる程度の酩酊状態にするつもりだったんだけど」
「……」
「お前と彼の関係についても、まったく知らなかった。人生のパートナーとなったかもしれない相手が忽然といなくなるなんて、たとえようのない苦痛だよ。どう詫びていいのかわからない。可能ならば俺がたかやまっさんに代わって恋人役をやってやりたいくらいだが、残念ながら俺は同姓には興味ないからな。ただし、調べてみたところによると、お前のことを『タイプ』だと思ってる奴隷は、意外にいるみたいだな」
「そんな奴いるわけないだろ」
軸回転は黙々と土を掘っているふりを装っていたが、思わず口を開いた。
「いや、マジだよ。本人から聞いたから間違いない。ただ、すごくシャイな男だから、自分から告白するのが恥ずかしいだけだ。お前にその気があるなら、俺がふたりの仲を取り持ってやってもいい。その代わり、たかやまっさんのことはきれいさっぱり水に流してくれるとありがたい。さぁ、どうする?」
軸回転はしばらく無言で作業を続けていたが、提案に食いついてくる確信はあった。たかやまっさんがいなくなってから1週間、そろそろ彼も本気で人肌が恋しくなってきているはずだ。
かくして、軸回転は僕の目を睨んで言った。
「いいだろう。お前の紹介する男が上玉なら、少なくとも一斉シカト警報は解除してやる。ただし、たかやまっさんの恨みは俺は一生忘れるつもりはないし、フカシギと個人的に仲よくなることも未来永劫ないだろう。それでもいいか?」
「もちろん」僕は答えた。僕としては、今の総シカト状態さえ改善できれば不満はない。
「じゃあ、今夜俺のベッドに来てくれ。お前の新しいパートナーを待機させておくから」僕は言った。
軸回転はうなずいた。よほど楽しみなのか、今にも舌なめずりしそうな顔をしている。
僕が軸回転のために用意した新パートナーは、クレバスだった。僕は「このあいだのお礼がしたい」と言ってクレバスを自分のベッドに来させ、前々から隠し持っていた安物の缶ビールで乾杯した。ビールには例によって小量の睡眠薬が仕込まれていたので、酔いと相まってクレバスはすぐに僕のベッドで眠り込んだ。準備は完了だ。あとは、僕自身はクレバスのベッドで寝ながら、軸回転がやってくるのを待てばいい。押しに弱いクレバスなら、たとえ目覚めても強引にせまってくる軸回転を断り切れないと僕は踏んでいた。結果は想像の通りだった。表立っては公表できないものの、奴隷の新しいカップルが誕生した。それ以来、毎晩クレバスのベッドから何かがこすれ合う物音が聞こえるようになった。
僕は奴隷労働を続けながらも、首輪落ちの機会をうかがっていた。しかし、何も妙案が浮かばないまま次のぎょう虫検査の日を迎えた。
朝から昼休憩が来るのが待ち遠しかった。今回は午前中に体力測定をおこなったが、骨折がまだ完治していないこともあり前回ほどの数値は出せなかった。身体を動かす前に怪我の状態を診断してもらったが、僕のあばら骨は常人ではあり得ないスピードで修復しつつあり、ヒツジ人間の医師を驚嘆させた。
「普通だったら、そんな傷みに耐えながら重労働なんてできませんよ。あなた、身体の一部にサイボーグ入ってない?」
ヒツジ医者は疑わしげに胸部レントゲン写真を見やりながら言った。
昼休憩になると、僕はカフェテリアで昼食をとる前にまっすぐに売店に向かった。ステイは足台に乗って、僕なら余裕で手が届く高さの棚を拭き掃除していた。彼女は入口に背中を向けていたのにも関わらずすぐに僕の気配に気がつき、こちらを振り向いて微笑んだ。
「こんにちは、フカシギさん。また来てくれたんですね」
「名前、覚えていてくれたんですか?」
僕は感動のあまり涙が出そうだった。彼女はその様子を見て笑った。
「もちろんです。『フカシギ』なんて変わったお名前、そうそう忘れられるわけないですから。何か告白めいた言葉もおっしゃってましたし…」
店内にお客がいないのをいいことに、僕たちはかなり長時間世間話をした。もっとも、僕は奴隷生活の現状以外に語れる話がなかったので、もっぱら聞き役に回った。ステイは自分の家族構成や、家庭菜園で育てているレタスの生育具合、ATSW の総帥を決める犬人間たちの総選挙の公示が始まったこと(もちろん、プレーンの人間に選挙権はない)、ヤマアラシ人間vsハリネズミ人間の地域紛争の激化などの話題について語った。外の世界のニュースを何ひとつ知らない僕にとっては、どの話もとても興味深かった。
「ごめんなさい、私ばかり話しちゃって。今日は何も買わなくていいの?」
ステイは夢中になって話していたが、ふいに我に返って言った。
そこで、僕はキウイのスムージーと少し形の崩れたメロンパンを買った。かなりサビの強い500円玉で支払ったが、もちろん彼女は嫌な顔ひとつしなかった。
「あっ…」
ステイが吐息のような声を漏らした。おつりを渡してくれたときに、僕は無意識に彼女の手を握っていた。そのまま数分のあいだ、僕たちは互いにまったく身動きが取れなくなり、ひたすら相手の目を見つめ合った。強引にキスに移行してもいいような気がしたが、タイミング悪く店内に客が入ってきたので、僕は何とか理性を保った。
先に手を離したのはステイだった。時が止まっていたせいか、彼女はなぜか今ごろ顔を赤くしていた。そして、僕から目を逸らし、とても気まずそうに言った。
「私、来月結婚することになったの。たまたま誘われて行ったパーティーでプレーンの大富豪に気に入られて、翌日にはプロポーズされていた。あくまで側室としてだけど。それでも私がプロポーズを受ければ、私と両親に何不自由ない暮らしを約束してくれるって。私は正直、相手の性格もよくわからないし、本当は結婚したくないんだけど、病弱な両親のことを考えるとどうしても話を断れなかった。だから、あなたと会えるのはこれで最後になると思う」
ステイは泣いていたが、僕にはどうすることもできなかった。たかが奴隷の身分で、「そんな奴のところに行くな。僕と結婚してくれ」なんて、言えるはずがない。また、言えたとしても、僕には彼女を幸せにする力がない。僕はただ呆然と彼女の泣いている様子を眺めていた。再び彼女に触れるような資格はもう自分にはない気がした。僕はメロンパンとスムージーと泣きじゃくるステイをレジに残したまま、その場を立ち去った。
その日、真夜中になってから僕はひとり監房を抜け出し、「採掘場」に向かった。当然だが、真夜中の採掘場は圧倒的な静けさに包まれていた。ただひたすら僕らの掘った穴が無数に空いているだけだ。暗闇の中でその光景を眺めると、まるで自分が本物の月面に降り立ったような錯覚を覚える。
僕はその中でもひときわ大きな穴に身を横たえた。ずっと何のために穴を掘っているのかよくわからなかったが、ここに来てようやくわかった。僕は、自分で自分の墓穴を掘っていたのだ。実際に横たわってみると、穴の中は案外居心地がよかった。夕方少し雨が降ったせいか、背中に触れる砂がわずかに湿っていて、背中はそれほど痛くならなかった。見上げると、天空には無数の星が輝いている。その星のどこかには、奴隷制のない場所もあるのかもしれない。
そのまま1時間くらい穴に横たわっていたが、けっきょく僕は死ぬことをやめて立ち上がった。土をかけてくれる人間がいなければ、自分で自分を埋葬することはできない。それに、終わったことを悔やんでも仕方がない。どれだけ己の無力を痛感しようと、今はひとときのロマンチックを感じさせてくれたステイに感謝するしかなかった。
僕は身体についた土を払い、歩き出した。僕がとある奇特な犬人間と出会い「首輪落ち」を果たすのは、この2年後の話である。