3
突然湧いた声に心臓が驚く前に飛んできた切っ先を後ろへ身を翻して交わす。
かすかにピッと仮面が軋む音がした。あともう少し反応が遅れれば、このようなかすり傷だけでは済まず仮面ごと持って行かれただろう。
「おお、よく避けたな。退屈な仕事だと思ったが存外楽しめそうだ」
「……」
いつの間に背後を取られていたのか、いつの間に直剣の間合いに入られていたのか。いや、そもそもこの声。
(あの時、屋台で会った…!)
そんなまさか。何故こんなところで。頼む、聞き間違えであってくれ。
ヴェルーナの思いを嘲笑ったのは、月光だった。
闇に染め上げられていた部屋に青白い光りが射すと、対峙した男の顔が浮かび上がる。
作り物のように整った顔立ちと光り輝く菫色の瞳。紺のマントが彼を飾り黒の制服が身を包んでいる。その手に握られている剣は不気味なほどに美しく、冷たい色に染まっていた。
間違いない、あの時の黒騎士だ。
ヴェルーナの足が、僅かに後ずさったときだ。
男は、それはそれは美しい笑みを浮かべた。
深窓の令嬢も気位の高い貴婦人も花売りの少女も純真な町娘も無垢な聖女も、この世のすべてを魅了する笑み。
その笑みにヴェルーナは、一瞬で夢に引き込まれた感覚がした。
しかし、その後瞳に宿った獣の如き眼光に一瞬で心臓が凍りつく。
同時に、本能がここにいてはいけないと告げる。このままいれば、お前は喰われる。跡形もなく消えてしまうぞと。
理性が機能し始める前に、ヴェルーナはその身を窓の外へ踊らせた。
床から足が離れる瞬間、自分の足がまさに今まであった場所に焦げ跡が生まれた。
そんなことに怯えを抱いている暇はなかった。
咄嗟に、下の階の窓を蹴破って再び屋敷内に入る。
どうにかしてあの男を撒いて、この屋敷から撤退しなければならない。幸いにして、書類も首飾りも自分が持っている。もうあの部屋に用はない。
頭の中に入っている地図によれば、ここは侵入経路の森とは真反対の廊下。森に姿を隠すには、この廊下を走りきらなければならない。森に戻らない選択をすれば、見晴らし良好の庭を同じく疾走しなければならない。
森を選ぶのならば、たどり着くまでが勝負だが一度隠れてしまえばこちらのものだ。
「…うだうだ考えてる時間なんてない」
生きてきた中で確実に上位に食い込むだろう走りを見せながら、ヴェルーナは今にも心臓を吐き出しそうだった。
あの騎士がここにいるというだけでも衝撃だが、何よりもあの笑顔に魅入られた自分がいたことが信じられなかった。
振り払うように頭を激しく左右に振ると、真横で鋭い音が爆ぜた。
それを自覚するよりも早く、背後から放たれる異様な気配に一瞬で五臓六腑がすくみあがった。
全身で警報が鳴らされている通り、生命の危機を真摯に読み取る。
後ろを見なくたってわかる。あの男が追いついてきたのだ。
「おい、盗賊野郎。派手に暴れてくれるなよ。ツボやら花瓶やらの弁償がめんどくせぇぞ」
(心配するのそこ!?あと盗賊野郎じゃないし!)
声を大にして突っ込みたいところではあるが、女だとバレるわけにはいかない上にあのわずかな会話で声を覚えられていないとも限らない。
ぐっとこらえる代わりにスピードを上げて、出来るだけ男との距離を稼ごうとした。
しかし、男は楽しんでいるように見えて目的を達するために手加減一切なしの攻撃を仕掛けてきた。
お前本当は弁償云々とか絶対考えてないだろ、と心の中で叫ぶ。
止まっていては丸焦げになる。ヴェルーナは恐怖に屈してしまう前に、鞭を打って風を全身で切っていった。
長い、長い廊下だ。一体いつ終わるのか、終わりなんて感じられなかった。
その間も黒騎士は魔術を放ち続けている。
「ちょっと!いい加減しつこいんだけど!」
爆音の中聞こえない声量で悪態をつく。
そもそも何故ここに黒騎士がいるのか。
まさか、侵入がバレていていたのか。
何故、どうして、どうやって。
それだけがぐるぐると巡る。
考え事をしていたのが行けなかったのだろうか。
ヴェルーナの目前には、行き止まりの壁が迫ってきていた。
小さな窓一つついているだけで他に逃げ道はない。右を見ようが左を見ようが、繊細な花の壁紙がそこにあるだけだ。
しかし、引き返すなんていう選択肢はとうの昔に粉々となっている。
近づいてくる終わりと追い打ちをかけてくる爆音。ヴェルーナには耐えられない緊縛感だった。
「あぁ、もう!『開いて』!」
ヴェルーナが心の底からその言葉を言った瞬間、どういうことだろうか。窓がひとりでに勢いよく開け放たれた。
これは時たまあることだった。
ヴェルーナが窮地に陥ったり感情が昂ぶり過ぎたりした時に発した言葉が、二重のようにブレて響くとその言葉通りのことが起きてしまうのだ。
しかし、ヴェルーナが意識的にこれを行ったことはない。
常に自分が冷静ではない時に現れてしまうのだった。
今はその奇妙な力を解析している暇はなく、窓枠に足をかけ思いっきり蹴飛ばして隣の棟の屋根へ飛び移る。
「ネッピ!」
「カァ!」
「これを!あの人に届けて!」
せめてこの首飾りだけは娘に返してあげたい。
毛頭捕まる気はないが、あの娘をもう泣かせたくはなかった。
ネッピは賢い。だから、娘のところまで迷わず向かってくれるだろう。
自分と並走するネッピめがけて首飾りが入った袋を高く投げた。
見事に捕らえたネッピは猛スピードでその場から飛び去って、あっという間にヴェルーナからは見えなくなる。
「もうこれで大丈夫。ネッピなら、必ずやってくれるわ」
あとは自分が逃げるだけだ。
幸い、と言っていいのか男は一瞬の間ヴェルーナを見失ってくれているようだ。
「…よし」
小さく気合を入れ、強く踏み出し屋根の側面を駆け助走をつける。そのまま勢いを殺さず、手近な枝に飛び移ることが出来たことは経験と生まれながらの運動神経があってこそだった。
枝から枝へ、しばらくの間飛び回り屋敷からの距離を出来るだけ稼ぐが、流石に緊縛から解き放たれた重量は鈍くヴェルーナにのしかかる。
もういいだろうと油断したのがいけなかった。