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「…見つけた」
可哀想なほどに肩を揺らしたヴェルーナは、少し間を置いてゆっくりとこちらに顔を向ける。その顔は辛さに歪み、そして今まで押さえ込んで忘れていた感情に襲われている苦しさを滲ませていた。
乱れた呼吸で、ふと一つ思い出した。
(…似ているな、初めて出会った時と)
あの時も、必死に逃げるヴェルーナをゲーティスは追いかけていた。それでも心境は、あの時とはまったく逆だ。
迷いなく歩を進め、無理やり腕を取ってもヴェルーナは抵抗し続けゲーティスから持ちうる力のすべてを使って逃れようとした。
(こいつ…!こんなに力強かったのかよ…!)
騎士団で伊達に鍛えてはいなかったらしい。ドレスと体格差がなければゲーティスとて、突き飛ばされるくらいはされそうだ。
叫んで暴れて目を背けて、いっそ滑稽なほどにヴェルーナは気づかないフリをしようとしている。
つまりそれは、もうわかっているということだ。
ならばもう、その目でしかと見させるしかない。
強引に目を合わせれば、ついに観念したのか抵抗はやめその代わりにぎゅっとゲーティスの裾を掴む。
「なんで今更、私の前に現れるのよ!私のことを捨てた癖に、嫌った癖に!」
涙に濡れるルビーが悲痛に染まる。それでゲーティスは己の心臓が押しつぶされそうになる。
泣かせたい、わけではなかったのに。
今まで女の涙など嫌というほど見てきた。それらはすべて惨めな自分を演出するかのような、ただの小道具としか思えなかったのに。
こんなにも苦しいものなのか。
それでも、例えゲーティス自身が苦しくてもヴェルーナが辛くとも真実は真実だ。そして彼女はそれを知らなければならない。
ゲーティスの、目的も。
今更迷う余地はない。そう割り切って、ゲーティスはすべてを話した。
ヴェルーナがザクリア公爵の娘であること、捨てられたのではなく誘拐されたということ、そして自分とザクリア公爵との関係、目的まですべて語った。
目的を聞いたとき、もっと怒ると思っていた。
直情的な彼女のことだから、激しく自分を糾弾しふざけるなと、裏切ったのかと大声で自分を責め立てるのかと思っていたのだ。
しかし、予想に反し彼女から出たのはあまりにも冷たい声だった。
静かで、いっそ穏やかなはずなのに凍りつくほど冷気を帯びた視線。
「…馬鹿みたい。私、最初からあんたに騙されていたのね。私の世話を焼いていたのも、騎士団から逃げ出さないようにするため?まったく気がつかなかった。まんまとはめられていた」
「違う、そんなつもりじゃない。俺はただ」
もう一人の自分がせせら笑う。
なにが違うんだ。初めから利用していたじゃないか。
用が済んだら捨てようと思っていた癖に。
そうだった。何も違わない。
(俺は、こいつを利用した)
彼女を傷つけた人間達と同じ、いやそれ以上に自分は彼女を傷つけているじゃないか。
それでいいと思っていたのに。
いつから自分は幻想を抱いていた。
いつから笑っていて欲しいと願っていた。
―いつから、恨まれることを恐れるようになったのだ。
ヴェルーナの様子が変わったのはそれから少し後、ゲーティスが抱いている疑惑を打ち明けた時だ。
混乱するくらいは想定していたが、その尋常ではない態度に焦った。
まるで、なにか呪いにでもかけられたように苦しむヴェルーナにゲーティスの声は届かない。
「こうなったら…!」
魔術でヴェルーナを強制的に眠らすために、詠唱を始めようとした瞬間だ。
まさにこの世の悲痛を込めた絶叫が、ゲーティスを襲った。
容赦なく受けたそれに、とっさに張った防御壁も意味を成さず派手な音と共に砕け散ってゲーティスごと吹き飛ぶ。
「ぐぁあっ」
一瞬、呼吸が潰されその後に地面に強く叩きつけられたということを理解した。
霞む視界で辺りのレンガ道がえぐられ、丁寧に剪定されていた草木も見るも無惨な有様へと変貌しているのがわかる。
ヴェルーナは、手で顔を覆って異様な魔力を身にまとってそれを手当たり次第に放っていた。
きっと、自分でもなにが起こっているのかわかっていないだろう。ただ、訳も分からずこみ上げてくる衝動に身を任すしかない。
寂しさで不安になった、泣き叫ぶ子供のように。縋るものも何もない途方にくれた幼子のように。
もう一度、強い衝撃波によってゲーティスが吹き飛んでようやくヴェルーナの魔力の暴走は終わりを迎えた。
惨状を目にしたヴェルーナが、小さく悲鳴を上げる。
「ゲ、ゲーティス!!」
彼女のほっとした声が聞こえて、正気に戻ってくれたことに安堵する。
心配するな、というつもりで呼んだ彼女の名前はひどく掠れて出てきた。
「…ヴェルーナ」
きっとヴェルーナは、泣いている。
慰めてやらねば。頭を撫でて、その涙を拭ってやらなければ。そうじゃないと―
(お前はもう、笑ってくれないだろ)
それなのに、どうしてこの身体は動かないのだろう。
黒騎士団の団長が、この程度で負傷するなど情けない。今までもっと酷い修羅場も戦場も駆け抜けて来たのだ。たったこれだけで、動けなくなるはずがない。
もはや自棄になりながら必死に身体に力を込めているのに、このズタボロの身体はちっとも言うことを聞かない。
早く、早く大丈夫だと言ってやりたいのに。
ふいにぱっちりと二人の目があった。
その時のヴェルーナの瞳を、ゲーティスは一生忘れないだろう。自分自身に恐怖した絶望の色をしたあのルビーの瞳は、それからの人生で常に頭に残り続けた。
走り去っていくヴェルーナを、ゲーティスはただ眺めることしか出来なかった。
「……ちくしょう」
吐き出したそれは弱々しくて咳き込んで掻き消えるほど情けない。
(わかっていたはずだ。全部こうなるように仕組んだのは俺だ。公爵でも誰でもない、俺なんだ。恨まれてもいい、そんなの関係ねぇって思っていたじゃねえか)
過去の自分があまりにも愚かでいっそ笑えてくる。
いや、自分は最初から愚かだった。愚かで、鈍くて馬鹿だった。
実母が死に、訳も分からず名家の跡取りとして引き取られ父親にもろくな文句も言えず彼もまた逝った。残されたのは自分と血の繋がらない母とアクインという自分を苦しめた家だけ。
自分が生きるために、優しくしてくれた義母のためにアクインの名を継ぎ公爵に仕え、それを使ってさらに上へと目指していた自分はどれだけのものを犠牲にしたのか。いや、犠牲にするほどのものなと、元々持っていなかったのかもしれない。
自分で自分を嘲った。
「――ちょ、なんだこれ…!って、団長!?まさかこれ…しっかりしてください、団長!」
広間に続く回廊から一人走ってきたのはジャックだ。
裏庭の惨状に驚くも、さらにゲーティスの有様を見て混乱を極めている。
ぼやけていく頭の中で、ざっと辺りの様子を確認する。どうやらジャックは一人でこの場に来たようだ。
ジャック一人ならなんとかしてくれるだろう。これが他に漏れるのも心配ない。
「団長!?おい、団長!」
ゆっくりと闇に落ちていく意識の中で、いつまでもヴェルーナの叫びが木霊している気がした。