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「…まさか、こういうことになるとは」
目の前に広げられた手紙をほぼ投げるように机に置き、椅子に深く腰掛ける。自然とため息を吐いたのは仕方のないことだった。
ヴェルーナが騎士団に入ってからしばらく経った後ゲーティスは公爵へ報告をしたのだ。件の娘を見つけ、今は自分の手元にいること、そして犯人をおびき寄せるためまだ騎士団に置くことの許可を貰いたいこと、それに対する返答がこれだ。
「『君の傍にいれば滅多なことはないだろう、是非そうしてくれ。ただ一度だけでいい、本人であると確信が欲しい。ついては、同封した物を使ってくれ。幸運を。』…って、そうきたか。信頼されているのかいないのか」
「信頼はされているでしょ。ただ、確証が欲しいだけですよ。なんせ十三年ですし」
執務室のソファに行儀悪く座って、不機嫌そうにジャックが言う。
今回ばかりは少し頭が痛い命令だ。これは随分考えさせられる。
「……無理なら断ればいいんじゃないんすか」
「出来ると思うか?というより、俺がそんなことをすると思うか?」
もちろん、否だ。
「……どうせ俺が妨害したところで意味ないんでしょうね」
低く呟かれたそれにはあえて返さなかった。
ああは言っても、正直なところ迷っていた。このことを彼女に告げていいものか。彼女はひどく怯えるだろう。そんなところへ、彼女が知りたくないと言ったことがわかってしまうところへ連れて行くのは気が引けた。
彼女がもう一度傷つく姿を見たくなかった。
しかし、生まれたばかりの名前もない感情と染み付いた忠犬根性ではどちらが勝つか明白で結局ゲーティスは何の変更もなく順調に準備を進めていってしまった。
行かなくていい。
何度そう言いたかったことか。だがその一方でこう叫んでいた。
お前は知らなきゃいけない。自分が本当は何者なのか。真実を知らなければいけないのだ。
ヴェルーナは一度決まったことだからと、投げやりになることなく一所懸命にマナーやダンス、立ち振る舞いを覚え自分がパートナーであることでゲーティスに恥をかかせないようにとひたむきだった。
それがまたゲーティスの罪悪感を増長させる。
もっと文句を言っていいのに、結局対価として強請られたのは菓子だけだ。
純粋に自分に心を任せてくれることが嬉しくて悲しくて、苦しかった。
「この子は多くのことを背負って生きてきました。それはきっと今もこれからも変わることはないでしょう。その中で、この子自身が苦しむ決断をしなければいけないときが来るわ。そのときはどうか、この子の傍で支えてください」
義母がヴェルーナにそう告げた時、息を思わず詰めてしまった。
義母は自分の抱えている想いに気づいているのだろうか。敏い義母がゲーティスの使命を言われずとも知っていることはわかっている。しかし、こうも明確に口に出されたのは初めてだ。
腹を痛めて産んでくれた母ではないが、実母と同じくらいにこの義母が大事で家族として愛している。だからこそ、義母が不自由ないように自分は使命を果たさなければいけないのだ。
そうしてついに舞台袖まで来てしまった。
なにも知らない主役は、哀れにも自分を騙している人間の手を嬉しそうに取り柔らかく笑ってみせたのだ。
「王子様みたい」
なんて頬を染めながら言われれば、固まらない男等いない。
「世界一素敵な、アネモネの姫君」
そう言っておいて、心の中で自嘲する。
正真正銘、自分の手を握っているのはこの国の姫君だ。現国王の孫娘というこの上なく由緒正しい血統のお姫様。本来なら自分など、到底手を取ることは出来ない人間だ。
(それでも…すべてを告げてこいつに恨まれるまで、俺はこいつの王子でいよう)
せめてもの贖罪に、今だけは彼女の幻想に生きることにした。
本来はただの仕事であったパーティーが、彼女と共にいるだけで楽しく感じられる。
嬉しそうに飲み物を口にしたり初めてダンスフロアでステップを踏んだ興奮を噛み締めていたりする彼女を見て、自然とゲーティスの注意力もおざなりになっていってしまった。
だから、油断したのだ。自分が誰に仕えているか、一時でも忘れてしまったせいで。
ダンスの褒美に彼女の好きな甘味を取ってきてやろうと傍を離れた。今思えば迂闊にもほどがある。気が抜けていたせいで、まさか主人が自分の行く先にいたなんて気づいていなかったのだ。
「ゲーティス。久しいな」
「!殿下、お久しぶりでございます。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません」
「いや、いい。今宵はお前にも連れがいるのだし、そちらを優先することは当たり前のことだ」
鼓膜に響くバリトンに、冷や汗が垂れる。すべてを知っているこの人に、下手なことは言えない。
「…奥様、ご機嫌麗しく。本日は大変な名誉ある役をおまかせくださり、誠にありがたく存じます」
「ふふ、ご機嫌よう。貴方ですもの、これ以上の適任はいないわ」
目を細めて笑う夫人が、実はかなりのやり手であることをゲーティスは身を持って知っている。アクインの老害連中を鶴の一声で黙らしたのもこの女性だ。
深紅の髪を持つ公爵に、ワインレッドの瞳を持つ夫人。
王族のみが持つ赤を持つ二人は、自分の部下の彼女によく似ている。いや、彼女が二人に似ているのだ。
「…本当に、あの子が見つかったのだな」
公爵の声はゲーティスすら聞き取ることが困難なほどに低められ、小さく呟かれた言葉は独り言のようだった。
先ほどのダンスを二人も見ていたはずだ。
遠目であっても、我が子を見間違うはずもない。二人はヴェルーナが十三年前にいなくなった愛娘だと確信しただろう。
「…以前ご報告しましたが、彼女は―」
「ああ、もうやっと見つけた、ちょっと時間かかり、すぎ…」
なんというタイミングの悪さだろう。
最も来て欲しくないときに、最も来て欲しくない人間が自ら飛び込んでくるとは、ゲーティスは天を仰ぎたい気分だった。
「…ヴェルーナ」
もう覚悟を決めるしかない、と静かに彼女の名前を呼ぶ。しかし、彼女はそれに答えなかった。
理解したのだろう。目の前にいるのが誰なのか。
自分の何であるのか。
大きな目をさらに開けて、その小ぶりな唇からは微かな息遣いすらほとんど聞こえない。
「ヴェルーナ、どうし―」
その言葉を最後まで聞くことなく、ヴェルーナは弾かれたように踵を返してゲーティスが伸ばした手を抜けて行ってしまった。
あっという間に人の波に紛れてしまった彼女をもう目視で探すのは難しい。
「申し訳ございません、彼女を追います。詳しいことは御子息にお聞きください」
「ああ…すまない、頼んだ」
「ゲーティス、あの子を…よろしくね」
最後まで聞くことなく、ゲーティスはすぐに身を翻しヴェルーナが行ったであろう人混みに突入した。
(ちくしょう、馬鹿か俺は。元々今日は公爵に姿を見せるだけだってのに…!)
まさか対面させることになるとは思わなかった。
ヴェルーナの貴族嫌いと両親に対する負の感情があまりにも深すぎたため、今は会わせるべきではないと判断して二人にもそう告げてあったのに自分が離れたせいで運悪く彼女は悟ってしまった。
この広い会場の中で、いくら目立つとはいえ探すのは骨が折れる。あのヴェルーナが人混みへ逃げるとは思えない。だから迷わず裏庭へ続く廊下を走った。咎める人間すらそこにはいない。
ろくな灯りもない裏庭で、かくして追い人はそこにいた。