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そこからどうやって帰って朝を迎えたのか、よく覚えていない。
何故か頭は冷静に「ドレスを返さなければ」と判断し、ゲーティスの屋敷まで行ってたった一人で帰ってきたヴェルーナに驚いている使用人達を置いて早々に着替えるとそのまま寮まで逃げたのだと思う。
その時分には随分夜も更けていたが、ゲーティスはまだ帰ってきてないのか今日は屋敷に泊まるつもりなのか隣の部屋に気配はなかった。
ベッドに倒れこみ、そのままほぼ気絶同然に意識が暗転した。
すべてが夢うつつに感じ、すべてが遠く見えた。
身体がひどい疲労を訴え、朝日が登っても指一本動かすことすら億劫だった。
やがて、遠くの方から起床の鐘がなりそしてあっという間に始業の鐘が鳴ってもなおヴェルーナはベッドから抜け出すことが出来なかった。
いつまでも出勤してこないヴェルーナを気にかけて、エーリーが訪ねてきてくれたが体調不良だ、と言って扉の前で追い払ってしまった。幸い、というかなんというかエーリーは都合のいい方に解釈してくれたようで特に詮索はしてこなかった。こういうときになって初めて、女性に生まれてよかったと思えた。
窓から見上げる空はすっきりと晴れ渡っていて、眩しいほどの青だ。
本来なら、もうとっくに業務に当たっているはずだ。今日は週初めだから、城下町の見回りか。
ヴェルーナがいなくとも問題はないだろうが、それでも仕事をしていないというのは罪悪感をかきたてる。
「…カァ」
「ネッピ…大丈夫だよ。ちょっと、色々…考えているだけ」
腕の中にいるネッピは弱々しく鳴くと、ヴェルーナの指を軽く甘噛みして目を閉じた。
ネッピの温もりが、今はどうしようもなく愛おしい。
もう何を信じていいのかわからなかった。
ただ、何か考えようとするとまた頭痛が襲ってくるせいで真剣にゲーティスの言葉を考えることは難しかった。
結局、朝も昼も部屋の外へ出ることなく終わってしまった。
日が暮れて室内が濃紺に染め上げられたとき、隣の部屋の扉が開いた気配がした。
「…!」
ゲーティスが帰ってきたのか。
ヴェルーナはとっさに身を丸めて、布団を頭から被る。
何も見たくない、何も知りたくない。
心がそう言っている。
そうしてまた、ヴェルーナは眠りへと落ちていった。
次の日の早朝、ヴェルーナは誰よりも早く起きて身支度を整えると隣人に気づかれぬようそっと部屋を出た。
流石に二日連続で休むわけにはいかず、けれどゲーティスに顔は合わせづらいので考えに考えた結果ゲーティスより早く部屋を出ることで遭遇を避けることにしたのだ。
ゲーティスが何時頃に起きてどれくらいの時間に出勤するのか、正確なことは知らないが大抵起床の鐘で起きるとゲーティスは既に部屋にいないことが多かった。
だったら、もっと早くに部屋を出れば会わなくても済むし無理して始業ギリギリまで部屋にこもる必要もなくなる。
幸いなことに、ここしばらく鍛錬をしていなかったのでやることは色々あった。
寮を出て屋外の訓練場まで足を伸ばす。朝露に濡れた草の匂いが胸に爽快感をもたらした。
とりあえず素振りをするか、と持ってきた木剣を構える。
そうして無心に振っていれば、時間が経つのは早くヴェルーナはそうして始業までの時間を潰すことを日課にした。
とにかく徹底してゲーティスを避けた。
本当は色々言わなければいけないことはあるのだが、本人を目の前にすると怖いのだ。
あの時のことが蘇ってしまって、またあんなことをしてしまうのではないのかと不安になる。
それが嫌でゲーティスを徹底的に避け、雑用を率先して受けて暇を作らないようにし街への巡回も積極的に出た。
我ながら露骨だと思う。あれから一言も喋っていなければ目も合わせていないし、そもそも彼の前に立つことすらしていない。
他の団員はそんなヴェルーナを大いに訝しんだが、あえて突っ込まずヴェルーナのするがままにさせていた。実際業務に差し障りはないので、問題はないのだ。
今日も今日とてゲーティス回避のため、エーリーや他の団員数人と共に街の巡回をしていた。
「このところ、魔物の件で騎士団は忙しいですからこういった日常業務を僕達でカバーしあうしかないんですが、街の巡回って思っていたよりも大変なんですね」
「え?そうかな。私は街の人と話せて楽しいよ」
隣を歩くエーリーがぽつりと漏らしたそれに、ヴェルーナは不思議そうな顔をした。
「黒騎士団は主に要人の警護や大規模な作戦での戦力、あるいは国王の勅命が真っ先に下ってくるような組織ですからあまり国民と関わる機会はないんです。街の巡回も、こうして他が手薄になったときにやるくらいなのでどうやって彼らとコミュニケーションを取っていいのかわからなくて…」
これは嫌味ではなく本気の悩みのようだ。そもそも、エーリーが嫌味をいうとは思えない。
(エーリーにとって)深刻な悩みにヴェルーナも頭を捻る。
元々平民として生きていたヴェルーナにはどうやって、と言われても特に的確に言えることなどない。ただ普通に話して、困っていることを聞いているだけだ。
しかし、それがエーリーだけでなく他の団員も難しいらしい。どうやら自分達が平民を怯えさせていると思っているらしいのだ。
確かに、普段見ない黒ずくめの騎士達が街を巡回していたらそれは怖いだろうと思う。体格が立派な者もいるし、見てくれだけは物騒な者だっている。実際は皆子供みたいな気のいい人達なのだが。
もう一つが、自分達の言葉が威圧的に捉えられているらしい、ということだ。
まあそれはそうだろうな、とヴェルーナは苦笑を漏らす。不慣れな故の堅苦しい喋り方はそれは威圧的に見えるだろう。それで声がまだ軽快だったらいいのだが、それすらも満足に出せていないのだがら街の人達に怖がられるのも仕方ない。
せめてゲーティスみたいに気さくに話していればいいのに。
「せめて団長みたいに気軽に話せるようになりたいんですけどね」
自分の考えとエーリーの言葉がぴったりそのままで、思わず肩が跳ねる。
まさか思考を読まれたわけではあるまい。現にエーリーはヴェルーナよりもはるか向こうを遠い目で見ているし。
「じゃ、じゃあ私をお手本にしたら?少しはわかるかもよ」
「ヴェルーナみたいに愛想よく出来るかわかりませんが…頑張ってみます!何事も挑戦ですしね!」
ヴェルーナの取り繕いに気づかないエーリーは、健気にもガッツポーズを作って意気込んだ。
最近わかったことだが、エーリーは今年で二十歳らしい。しかし、普段の振る舞いからとてもそうは見えず下手をすればヴェルーナよりも幼く見えてしまうときもある。
彼はその純粋さ故のまっすぐな騎士道をやっかまれ、新人だった頃に徹底的にいじめ抜かれたらしい。それでも彼は擦れず卑屈にならず、必死に自分の志を持っているところをゲーティスは気に入って黒騎士団に引き入れたという。
ゲーティスは決して感情のみで動く人間ではない。
そこには常に何かしらの考えがあり意味が含まれている。
それでも、こういう話を聞く度に思ってしまうのだ。
本当に、自分を逃がさないためだけに騎士団に引き止めていたのか。そこに情のようなものは一切なかったのだろうかと。
ゲーティスを避ければ避けるほど、頭の中はゲーティスでいっぱいだ。
「…ヴェルーナ?どうしました?」
「え、べ、別になんでもないよっほら、行こう!」
そう言って、エーリーの腕を強く引っ張る。
反動でつんのめってしまったエーリーから控えめな非難の声が上がるがあえて無視を決め込むことにした。