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「肩に手を置いて、あとは俺に委ねろ。充分練習したんだから、勿論完璧なんだよな?」
「あ、当たり前じゃない。練習通りやってみせるわよ」
小声でやり取りをしながら、ゲーティスはヴェルーナの腰に手を回し二人で手を重ねた。
社交界のファーストダンスは、まず爵位順で行われる。公爵、侯爵、伯爵となり次に男爵、子爵、騎士爵が続く。
ゲーティスの爵位は侯爵という高い地位のものだった。アクイン家は貴族の中でも王族と並ぶほど長い歴史と多くの功績を積み重ねてきて、貴族でも少々異色の名家だという。
そんな人間とパートナーだなんて、緊張しないわけがない。ただでさえ新参者で注目を浴びているのに、付け焼刃の技術でどこまで通用するのか。
「…大丈夫、俺を信じろ。こういうのは楽しんだ者勝ちだ」
ニヤリと笑ったその顔は、随分底意地が悪くておおよそ貴族には似つかわしくない表情だった。
どんなに大貴族だって、結局はゲーティスだ。いつもと立場が違うからといってそんなことに一々動揺していることがバカらしくなってくる。
「…やってやるわよ。練習の成果、見てなさい」
「それでこそ、俺の教え子だな」
誰が教え子よ、なんて口を開く前に広間に静寂が落ちた。
やがて、弦楽器の低音と共に曲が始まる。
ゆったりとした三拍子で取れるワルツがかかると、ゲーティスの足が滑り出した。
足に意識ばかりを向けていると、いつしかリズムを取ることを忘れ音楽すら耳に入ってこなくなる。大事なのは足ではなくリズム、リズムさえわかっていれば自然とどう動けばわかる。
レッスンの時ジャックが何度も繰り返し言っていたことを反芻し、ヴェルーナもゲーティスに身を寄せた。
初歩的なワルツが流れているおかげでターンのタイミングも読みやすい。
何より、ゲーティスがヴェルーナを一番に気にかけていることが足さばきでわかった。
気づけばヴェルーナはダンスの成功よりも、音に合わせて流れていく身体に心が傾いていた。
音色という海の中で揺蕩いながら自分の思うままに波に乗り、心地よい風に揺られる。
そんな間隔に酔いしれていれば、あっという間に一曲終わってしまった。
はっと気がついて急いで中央の間から退場しても、まだ心臓の高鳴りは抑えられない。
「…楽しかったみたいだな」
「ま、まあね。で、どうだった私のダンスの出来栄え」
「上出来すぎるほど上出来だ。ご褒美に甘いもの取ってきてやるから、ちょっとここで休んでろよ」
そう言うとゲーティスはあっさりヴェルーナを置いて、食事の用意されているテーブルへと向かっていってしまった。
ここで困ったのはヴェルーナである。右も左もわからない状況で一人にされることほど心細いものはない。
せめて目立たないように壁際により、暇つぶしに周囲を観察することにした。もしかしたら、知り合いくらいは見つけられるのかもしれない。
そうしているうちに、ヴェルーナはあることに気がついてしまった。
「…アクインの小僧が、まさかパートナーを連れてくるとはな。しかも妙齢の女性を」
「しかし、聞いた話だとどうも身元の堅い人間ではなさそうだぞ。国境付近の出身ならば我が国の者ではないのかもしれん。そんな人間を高貴なるこの場に連れてくるなど…何を考えているんだ」
「所詮どれだけ着飾っても血は誤魔化せないということなんだろうよ。親子揃って妙な者にうつつを抜かして…平民の子である癖に侯爵だからと調子に乗りおって。末路など考えなくともわかるだろうに」
「だがあの髪色にあの瞳…まさか、あの方の…」
「ただの噂だろうあんなもの。今更公爵が気にしているとは思えん。立派な御子息だっていらっしゃるんだ」
声を低めるつもりがあるのかないのか。
おそらくヴェルーナが近くにいることに気がついていないのだろう。二人の貴族は忌々しそうにゲーティスのことをすらすらと罵倒していた。
(平民…ゲーティスが言っていたことってこのことだったのね)
今でも母のこと生まれのこと育ちのことで陰口を言われると、彼は言っていた。彼自身は全く気にしていないようだし憤るにも値しないくだらないことだと捨て置いている。だからここでヴェルーナが咎めることに意味はないのだ。
「聞きまして…?アクイン様のパートナーの女性、西の出身でしかも商家の養女で実際の生まれは定かではないそうよ」
打って変わって、こちらの談話は声を低める気などさらさらないようだ。
視線だけそちらに向けると、それは豪奢にドレスアップをした若い女性達が扇で口を隠しながら明らかにヴェルーナが近くにいることを認識してお喋りに興じている。
(全く、貴族は陰口以外に話題はないのかしら)
もはや怒る気にもなれない。しかも何やら無駄な脚色も入っている。実際、間違ってはいないのだが。
適当に聞き流せばいいか、とそのまますまし顔をしているヴェルーナが気に入らないのかさらに彼女達の会話は苛烈した。
「わたくしなら恥ずかしくて自ら辞退しますわ。最も、そんな身の上になることを想像することさえぞっとしてしまうけれど」
「そうよね、例えアクイン様からのお誘いとはいえかの方が恥をかくと何故思わないのかしら。図々しいのではなくて?」
「あら、アクイン様はお優しい方よ。此処で無下にしてしまえば知り合いの商家に迷惑がかかると考えたのではないかしら。その優しさを勘違いしなければ良いのだけれど。自分自身がアクイン様の隣に立つべき人間ではないと、自覚して頂けなければ」
優しい、という言葉に思わず鼻で笑いそうになった。
確かにゲーティスにも優しさ、といったものは存在しているが彼はそれ以上にいじめっ子だ。騎士団での彼を知らないから彼女達はそう言えるのだろうが、普段の彼を見たらどれだけ驚くだろうか。
「…もしかして、ただの平民の出なのかしら。それを偽ってアクイン様に近づくなんて本当に浅ましい。これだから嫌なのよ、何も出来ない施しを待つしかない平民なんて」
その言葉は深くヴェルーナの心をえぐった。
平民、という身分がどれだけ貴族に嫌悪されているか。
そんなこと知っている、今まで沢山見てきた。ヴェルーナが盗みに入った人間は、そういった歪んだ認識を実行する奴らだったのだから。
ヴェルーナだって、色んな人に傷つけられてきた。その分辛い思いもしたし、憎んだりもした。
だから嫌だった。
自分のようにいわれのないことで傷つけられ、嗤われ、虐げられる人々を放っておけなかった。
「愚かな考えでアクイン様に擦り寄るなんて…身の程知らずもいいところだわ。アクイン様には、貴族の高貴な者こそ相応しいのに…あんな娘が隣に立っていいわけがないのに」
わかっている、そんなことわざわざ言われなくとも。
自分とゲーティスは最初、利害の一致で繋がったのだ。
それがいつしか、いやあの日彼を信じると決めた時から彼の傍にいたいと思ってしまっていたのだ。
騎士団にいること、仲間に囲まれていること、誰かと笑って話せること、全部ゲーティスと出会わなければ出来なかったことでそこで生きることに安寧を求めてしまったのだ。
ここにいたいと、思ってしまったのだ。
愚かしいと、おこがましいとわかっている。
化け物と罵られることのない場所にいるだけで良かったのに、これ以上の幸せを知ってしまった。人と共にいることを知ってしまった。
「あんな髪と瞳さえなければ、アクイン様の目に留まることすらないのに…!」
「えっ…?」
どういうことだと、思わず彼女達を振り返ろうとした瞬間だ。
「…ヴェルーナ、何してるのこんなところで」
ぐいっと左手が引かれ聞き慣れた声が投げかけられた。