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会場に入ると、既にほとんどの招待客が到着していたのか人々の談笑と楽団の音色が広間に満ちていた。
ここから先は無駄な話はしないと、ヴェルーナはゲーティスと約束している。
もししゃべりすぎて育ちのことを見抜かれ嫌味でも言われたら面倒だ。所作はなんとかなってもそもそも直情型のヴェルーナは口が達者すぎる。いつもゲーティスに即座に言い返しているのがいい例だ。
流れとしては、まず今回パーティーを主催した公爵の挨拶、そこからしばしの談話と食事の時間が取られ曲が流れたらダンスの始まりだそうだ。
食事は今回立食形式であったので無理に食べる必要はない。問題なのは他の貴族との対面だが、これはゲーティスが付いてくれる。アクイン当主のパートナーを噂好きな貴族が逃すわけがないからだ。
ダンスは最低限一度は踊るのが礼儀だそうだ。大抵はパートナーが相手となるので、これもゲーティスと離れなければ問題はない。
頭の中でこれからの自分の行動を何度も繰り返していると、高らかにラッパの音が響いた。
「ザクリア公爵様御到着―!」
エントランスを振り返ると、今まさに貴族の夫妻が長い階段の上で手を取り合って前へ進み出ていた。
現国王の次男、第二王子のザクリア公は背筋を鋼のごとくまっすぐに正しており離れていても緊張感を覚える気迫だ。対して公爵夫人はまさに貴婦人という風で細身であったがアクイン夫人のような儚げな様子はなくむしろ凛々しく美しく佇んでいる。
残念ながら遠くて顔はよく見えなかったが、じっくり目を凝らしている間もなく周囲が膝を折ったのでそれにならった。
「今宵はお集まりいただき誠に感謝する。短い時間ではあるが、心ゆくまで寛ぎ楽しんで行かれよ」
ハリのあるバリトンが短く口上を述べ、公爵夫妻はその後別の場所へ移動していった。
公爵の挨拶も終わり、あとはダンスまで社交時間となる。
だが、ヴェルーナは少しぼうっとしていた。
(…公爵の声、私どこかで…)
どこだろう。
思い出そうとするが、しようとすればするほど記憶の霧が濃くなって何も見えなくなっていく。
なんだっけ、なんだっけ。
「…おい、大丈夫か。顔、白いぞ」
「え…?ああ、うん平気。初めて公爵様を見たから、緊張して」
「そうか。これから何人か挨拶に回らなきゃいけない。これるか?」
ヴェルーナはすぐに頷き、姿勢を正した。
今日はゲーティスのパートナー役として来たのだ。自分のよくわからない部分を優先して彼の評判を落としてしまうわけにはいかない。
極力喋らない、動かない、笑い続ける。
今回ヴェルーナに課せられた命令はこの三つだ。ヴェルーナもこの方がありがたい。これだけならば、自分の表情筋との耐久勝負だけで済む。
案の定、ゲーティスとヴェルーナがふたりっきりになった途端、あからさまではないが何人かの貴族がこちらへ接近してきた。
「ご機嫌よう、アクイン卿」
「これはこれは、ヤヘル男爵。ご無沙汰しております、お変わりありませんか」
まず話しかけてきたのは、いかにも貴族という感じの恰幅のいい口髭を立派に蓄えた男性だった。
ゲーティスはすぐさま笑顔の仮面を被り声色もいつもよりも少し高くしていた。それを見て、ヴェルーナはそっと心の隅で気味悪がった。
二言三言、世間話を交わすとごく自然にヤヘル男爵は件のことを口にした。
「…して、アクイン卿。今宵は珍しい方をお連れしておりますな。宜しければご紹介頂いても?」
「ええ勿論です。さあヴェルーナ…」
今まで一歩引いたところで待機していたヴェルーナの手をごく自然に取り砂糖のように甘い声で呼びかける。
その仕草のわざとらしさは鳥肌どころの騒ぎではない。ヴェルーナはもう、気味が悪いどころか普段と違いすぎて腹を抱えて大声で笑いたい気分だった。
しかし、そんなことを悟られたが最後。生きて帰ることはできないだろう。
流石にまだ命は惜しいので、言われたとおりのことを台本を読むように笑みを浮かべて言った。
「…お初にお目にかかります、ヴェルーナと申します。不束者ではございますが、以後お見知りおき下さいませ」
完璧に、完璧に、完璧に。
ただそれだけを唱え、教えられたものを微笑を添えて相手に提供すると悪くは捉えられなかったようで快活に男爵は笑った。
「いやはや、実に愛らしいご令嬢ですな。美しい振る舞いに目を奪われましたよ。どちらのご出身なのですか?」
「彼女は西の出身なのですよ。隣国との国境付近に街があるでしょう、そこの長に紹介された娘なのです。商家からの紹介など宛にしていませんでしたが、信頼してよかった。こんな素敵な女性と私は巡り会えたのですから」
今回のヴェルーナの設定はこうだ。
ゲーティスが騎士団の遠征で趣いた国境付近の街で、街の長から紹介された娘と懇意にしているうちに仲が深まった。その娘は長の養女で、数年前から長の元で暮らしている貴族である。身分も申し分ないので、今回パーティーに招待されたことをきっかけに周囲にお披露目するために連れてこられた。
なんとまあ、無茶苦茶な設定だが、ゲーティス曰くこれくらいがちょうどいいらしくまた何かあったときに処理しやすいらしい。
何かってなんだ、と突っ込みたい気持ちは山々だったが恐ろしい気がして出来なかった。
「……それはそれは、劇的な出会いですな!まるで運命のようだ」
「私自身、運命は信じておりませんが今回ばかりは運命の女神に感謝しますよ」
「おや、無宗教派の貴方がそこまでおっしゃるとは。よほど惚れていると見える」
「そう解釈頂いてよろしいですよ」
「はっはっは!愛は偉大ですな、あのアクイン卿が惚気けるとは!これは面白いものを見せてもらった」
そこからいくつか他愛のない(とヴェルーナは思った)会話を挟むと男爵はすごすごと下がっていった。
しばらくそんなやり取りが繰り返された。
その度にゲーティスは笑顔で応対しヴェルーナを紹介し、砂糖を吐きそうなくらい甘い雰囲気で自分のパートナーを誉めそやし周囲にアピールしていた。
ようやく人の波が途切れた頃には、ヴェルーナは既に瀕死状態に近い疲労を感じた。
あんなゲーティス、二度と拝みたくないものだ。
こんな思いをするくらいなら、いつものいじめっ子モードの方がまだましだ。
「…ほら疲れたんだろ。これ飲め」
「………ありがと」
目の前に差し出されたグラスをありがたく受け取り、ちまちまと飲む。一気飲みしたいところだがそれは品が無いと再三言われた。
透き通った琥珀色のそれは口に含むと、爽やかな酸味と共にパチパチと炭酸が弾けて甘さを強調していた。初めて飲んだものだが、これは美味しい。
「美味しい。これお酒?」
「未成年にアルコールは厳禁だ、残念だったな」
「いやそういうわけじゃないんだけど…そういえば、結局レディキラーってなんだったの?」
瞬間、ゲーティスは飲み物を噴出さんばかりに大きく咳き込んだ。
慌てて背中をさすって落ち着くのを待つ。
ようやく止まったゲーティスは若干涙目のようだった。
「……お前、それまだ覚えていたのか。忘れろって言っただろう」
「でも気になるし…せっかくだから聞いておこうかなって。もしかしたら見られるかもとも思ったし」
「…いいか、よく聞けよ」
何がいけなかったのかゲーティスの機嫌が急降下したことが、ヴェルーナにはわかった。
ずいっと近づけられた顔はあまりにも至近距離で、今にも鼻の先がくっついてしまいそうだ。
「例え今日、どんな令嬢に声をかけられたって俺は見向きもしない。俺のパートナーはお前だ。俺はお前だけを見ている。だから、そのレディキラーをお前が目にすることは一生ない。わかったか」
魔王の声色でそう言われれば、頷く以外の選択肢なんてない。
必死に何度も首を縦に振って、ようやくゲーティスは顔を離した。思わず安堵のため息が出てしまう。
率直に言って、魔王のゲーティスは本当に怖い。
「さて、休憩は終わりだ。お待ちかねのダンスタイムだぞ」
試練というのは忘れた頃にやってくる。
ヴェルーナの休息は今しばらくなさそうだ。