25
「………」
「…おい」
「……………」
「おい」
「……………………」
「無視を貫くとはいい度胸してんなお前」
「みゃあ!?」
突如伸びてきた手によって割と強く頬を引っ張られ、ヴェルーナの意識は瞑想から抜け出した。
ところ変わって、今はアクイン家の馬車の中だ。
流石名家の御者だ。揺れがほとんどしない、快適な乗り心地だ。
静かに響く馬の蹄と車輪の音がヴェルーナには緊張を高める材料にしかならない。先ほどまで夫人と話していたときは、きっと大丈夫だと思えたのにいざとなるとやっぱり怖気づく。
「い、痛い!化粧取れちゃうでしょ!」
「くだらん思考に耽ってシカトしやがったからだよ。もういい加減腹くくれ、往生際が悪いぞ」
「誰のせいでこうなってると!?」
「俺だな」
「……そうね」
最初は神妙にしてきた癖に、日が経つにつれゲーティスは開き直っていったのだ。
おかげで通常運転の嫌味は炸裂し、何度約束を反故にしようかと思ったことか。
でも最終的に引き受けたのは自分だから、とその気持ちを抑えてきた。それも今日、この数時間を耐えれば終わるのだ。
この数時間。
パーティーさえ終われば、あとは今まで通り訓練して仕事してリーゼ達とお茶をして街に出て…。
(あれ、私…)
何かが引っかかる。
正確には、何か自分の心を覆っていたものが薄くなっているような奇妙な感覚だ。
それを確かめるまもなく、会場に到着した知らせを御者が伝えた。
さあ、いよいよだ。
マナーも身に付けグレタ達にみっちりしごかれた身のこなし、ダンスだって必死に覚えた。あとは度胸。それだけだ。
「…よし、顔は作れたみたいだな。その感じでいけよ。堂々としてれば、誰もお前のことをかの有名な盗賊だとは思わない」
やがて馬車が停止し、戸が開かれた。
ひらりと降りたゲーティスは、無言でヴェルーナに手を差し出した。
その仕草に思わず胸が鳴る。
騎士の正装をしているゲーティスはいつにもまして美しい。
濡れ羽色の髪を撫でつけ整えて、漆黒の騎士服は品があって不気味さはない。あしらわれた装飾も控えめに輝いているが、一級品だ。
騎士団にいるときはもっと砕けた格好で、制服のボタンなんか一つくらい開けっ放しにしているしマントだってつけたがらないのに、こういう姿だって腹が立つほど絵になるのだ。
ゲーティスの大きな手のひらに、自分の手をそっと重ねる。そうすれば、自分とゲーティスの違いが一目瞭然と取れた。
地に降り立ったヴェルーナを、ゲーティスは慣れた風にエスコートし腕を組ます。
それだけでヴェルーナは心臓が爆発しそうで今にも飛び上がりそうだった。
「…大丈夫、おかしくない。ほら、周りを見てみろ。皆俺達と同じだ」
ヴェルーナのぎこちなさを緊張と取ったゲーティスは少し首を傾け、耳元に囁いた。
耳に熱が宿るのを感じながら、言われたとおりにそっと周りを見渡す。
「…わあ、素敵…」
絵本で見た景色そのものだ。
大きな屋敷に、馬車から降りた男女がゆっくりとエントランスを通っていく。どの組も腕を組んで寄り添い、穏やかに微笑み合っている。
女性は蝶のように着飾り、男性は恭しくエスコートをしている。皆どこにも不自然さはなく、堂々としたものだ。
「…な?」
「うん…あのね、ゲーティス」
「なんだ?」
腕を組んでいつもより至近距離にいるゲーティスを見上げた。踵の高い靴を履いてもなお、身長差はなくならない。
「言いそこねたけど…あの、今日のゲーティスすっごくかっこいい。王子様みたい」
少し言い回しが子供じみていたか。
けれども仕方ない、本心を明かすにはありのままを口に出すのが一番だから。
対するゲーティスは、呆気にとられたあとはあーっと息を吐き出して組んでいない方の手で顔を覆った。
「ったく、お前はなんでそういう……くそ…俺が情けなくなるじゃねえか」
「えっ?な、なにかダメだった?」
あー、とかいや、とかよくわからない言葉を繰り返すゲーティスにヴェルーナは不安になった。
なにか機嫌を損ねてしまったのだろうか。もしかして、こう言ったことは直接相手には伝えない方が良かったのだろうか。
焦るヴェルーナを見下ろし、もう一度深く息を吐くとヴェルーナの空いている手を取った。
「…よく似合っている。この場にいる誰よりも、どの花よりも可憐で輝いている。世界一素敵な、アネモネの姫君」
ふわりと唇が手の甲に押し当てられ、囁いた言葉がするりとヴェルーナへ届けられる。
照れ隠しも見え透いた世辞も上手すぎる手練手管も、何もない彼の仕草たった一つで自分はこんなにも満たされるのだと気づいた。
パキリ、とまた音がした。
そんなこと、今は関係ない。
ただヴェルーナは心の底から、ゲーティスに微笑むことができたのだ。
その幼く淡い笑顔に、ゲーティスも頬を緩ませ口元が優しく歪んだ。