16
「…お前、」
先に静寂を破ったのはゲーティスだった。…のだが。
「クワァッ!」
「うお、なんだ!?」
「ネッピ!?」
ゲーティスの声を遮ったのは、いつの間にか戻ってきてヴェルーナの肩にとまったネッピだった。倒れかけたとき、ヴェルーナの腕から落ちる衝撃から逃げようと飛び去っていたのだ。
ネッピはヴェルーナを傷つけるなら許さないとばかりに威嚇をし、ゲーティスをヴェルーナに近づけさせなかった。相棒のそこまでの剣幕は今まで見たことがなかったのでヴェルーナもどうすればいいのかわからない。
とりあえず落ち着かせるために撫でたり話しかけたりしても一切無視をして、濁音がつくほど鳴きわめく。
「わかった、わかった。俺はお前のご主人を傷つけない。俺はこいつに何もしない。それでいいか?」
「グウェ!カカッ」
「…ご主人じゃなくて相棒だって」
「なるほど。じゃあその相棒に俺はなにもしない。だから警戒しないでくれないか」
ゲーティスが両手を上げ、自分にはなんも敵意はないと示してようやくネッピは鳴き止み、渋々といった感じではあるが肩から降りてヴェルーナの腕の中に収まった。
「…お前の相棒は過保護だな」
やれやれ、といった様子でゲーティスは苦笑し壁にもたれて座り込む。ヴェルーナもそれに倣って隣に腰を下ろす。ちょうど日陰になっていて眩しい太陽がありながらも涼しかった。
「ちょっと顔見せろ」
「へっ?」
「怪我。したんだろう」
そういえば、とヴェルーナは頬に触れる。その瞬間ぴりっとした痺れを感じる。どうやら怪我をしているのは本当らしい。
ゲーティスは深い溜息をついて、ハンカチと水の入った小さな携帯用水筒を取り出すと惜しまず水筒の中身をハンカチにふりかけそれを絞ってヴェルーナに手渡した。
受け取ったハンカチはひんやりとして、応急処置として頬に当てた。冷たすぎないその温度が心地よく感じた。
「…ありがと」
「なんだ、今日はやけに素直だな」
「うっさい!助けてもらったんだから、当たり前でしょ」
「そうかよ」
口は粗雑でも、ゲーティスは満足そうに言って不意に空を見上げた。釣られてヴェルーナも空を見上げる。
木の葉が風に揺られ太陽の光りを透かしては隠してを繰り返している。遠くの上では鳥だろうか、日光を背負って翼を大きく広げて空を横断していた。
「お前が、いつも話しかけていたのはそいつだったんだな」
「…き、聞いていたの?」
「部屋隣だぞ、聞こえるに決まっているだろう。最初は誰か部屋に入れているのかと思ったが、その割にはお前以外の人間の声は聞こえないし特に注意しないでいた」
それはかなり恥ずかしい。
ネッピ相手に日々あったことを打ち明けていたのだ。その会話が聞こえていたとなるとあの話やらこの話やら筒抜けということだ。
いや、今はそんなことよりも。
「……あんたは、あれ、言わないの」
「ん?ああ…」
ヴェルーナのあれが何を指すかすぐに理解したゲーティスは視線を戻さずにさらりと流す。
「俺は別に熱心な信者じゃないし、むしろ宗教には関わらないようにしている。だから俺の口からそれをいう事はない。残念だったな」
「残念だなんて…」
「お前は臆病なんだよ」
遠くで空を翔る鳥の声が聞こえる。
すべてがのどかで、すべてが自分達に関係のないことだ。まるでゲーティスの態度そのものだ。
「否定して欲しい、否定して欲しくない。受け入れて欲しい、受け入れて欲しくない。理解して欲しい、理解して欲しくない。全部が相反する思いを抱いている。それは他のものに対して信じたいという気持ちの反面、信じたあとの裏切りを恐れているからだ。だから、傷つけられる前に自分から傷つきに行く。そうして、心を閉じ込めている」
反論は出来なかった。
今まで自分が口に出せなかったことを見事に具現してみせたゲーティスは、視線を下に向けネッピの頭を撫でた。
その顔はとても穏やかで、優しかった。
「教えてくれ、お前がそうなってしまった過去を」
あまりにも簡単に聞かれたのに、ヴェルーナは簡単に答えることが出来なかった。
小さな世界で生きてきたヴェルーナにとって、ゲーティスは信用に足る人物であるとわかった上でまだ躊躇っていた。自分の過去を受け止めて欲しいのにして欲しくない。
黙ったヴェルーナをどう取ったのか、ゲーティスはぽつりと語り始めた。
「俺の家、アクイン家は代々国王陛下に近臣として使える名家だった」
「…え?」
呆気に取られるヴェルーナに構わずゲーティスは続ける。
「俺はその家の当主、親父の庶子として生まれ下町で母と二人貧しく暮らしていた。母が死ぬまで、アクイン家当主が自分の父親だなんて知りもしなかったよ。ただ母が、いつも誰かのことを想って泣いていたことは知っていた。幼心にそれは愛しているからではなく哀しみであることであることはわかった」
ゲーティスの声は静かで、さざめく波の音のように心地よく耳に響く。
気づけばヴェルーナの目はゲーティスだけを映していた。
「俺が十になる少し前のことだ。母が流行病で亡くなった。貧しかった所為でろくな治療も出来ず最後まで誰かを想って泣きながら逝った。それからしばらく経ったあと、俺の元に貴族の使いを名乗る人間がぞろぞろ来て、わけもわからないまま馬車に乗せられ身なりを整えられ王都の貴族の屋敷に連れて行かれた。それがアクインだった」
そのとき、ゲーティスは母を失った悲しみと母を最後まで泣かせた誰かを強く恨んでいたという。その最中で、貴族に呼び立てられ連れて行かれたということがどういうことなのか、賢いゲーティスはすぐにわかった。
「初めてあの男に会ったとき、ああこいつだってすぐにわかった。まったく同じ瞳の色を持っているその男が、俺の父親で母を哀しませた張本人だと。どんな最低野郎だと、どんなクソッタレだと本気で殺意を抱いていた俺に、まずしたことは謝罪だった。随分拍子抜けしたな、あのときは」
ははっと小さく笑ったゲーティスの顔に、歪みはなかった。ただ、過去を懐かしみ振り返っている。
ゲーティスの母はアクイン家の使用人だった。
よくある話だ、とゲーティスは語った。
使用人と当主の禁じられた恋。当時独身だった先代はゲーティスの母を身請けすることで己の加護に入れようとしたが、当然それを許さないのが貴族社会だ。二人はすぐさま引き裂かれた。それだけならまだよかった。先代が隠れて支援すれば、ゲーティスの母と身ごもっていた子供は不自由なく暮らすことが出来た。事はすべて先代のあずかり知らぬところで動いていた。
まず、下町へと戻った彼女は幼子を抱えながらも職に就こうと必死に動いていた。しかし、尽く断られる。せっかく就けた職でも、すぐに解雇された。貴族とは縁遠い仕事すら、ダメだった。場所を変えてもいずれは同じことが起きた。次第に、彼女の住まいは貴族の屋敷街から遠く離れた王都の端へ移っていた。少ない金をやりくりするために、治安のよくない王都の隅で親子は慎ましやかに暮らすことになった。
「全部、アクイン家の人間の仕業だった。親父が母を見つけ出すことが出来ないように手を回して職を潰し、自然と場所を転々とさせるように巧妙に仕組んでいた。そこまで手の込んだことをした理由はたった一つ」
アクイン家の人間が、下民と交わったなどあってはならぬ事態。すべてなかったことにし、二度と会えないように二度と思い出さないように。
「親父は必死に探していたさ。しかし、どうやったって見つからない。周囲の人間に丸め込まれ、ついに俺達親子は死んだのだと思ったらしい。そしてそのまま、家の言う通りの貴族のご令嬢と婚約し家を継いだ」
しかし、神の思し召しかもしくは運命か結婚したご令嬢も流行病に倒れ子をなせなくなった。
即座に離婚だ、跡取りがと騒ぐ周囲の中彼の元に一つの知らせが入った。