15
「…えっ」
「おい、寝ぼけてんじゃねぇぞ。しっかり目覚ませ」
その声だけで、眠りにつこうとしていた意思が目を覚まし血の巡りを蘇らせヴェルーナの瞼は開いた。
ゲーティスの菫色の瞳に自分の呆けた顔が映っている。握られている手は熱く、大きかった。抱き抱えてくれている腕は強くヴェルーナを支えてくれている。
「ゲー…ティス?」
「他に誰に見えるんだ。ほら、自分で立てよ」
「え?って、きゃあっ」
しばらく菫色に魅入ってしまったが、ゲーティスに言われ自分の今の体制に気づき半ば突き飛ばすようにして跳ね起きる。突き飛ばしたことに対して、ゲーティスはなにも言わなかった。むしろ、初心な反応をしたヴェルーナを馬鹿にするように口元だけ笑ってヴェルーナは顔から火が出そうだった。
意識を取り戻したヴェルーナの一方で、騎士二人はまるで幽霊を見たかのような実に間抜けな面を晒していた。
つい先程まで、勢いとはいえ馬鹿にしていた張本人が湧いて出てきたのだ。声すらでない。
ゲーティスは彼らを一瞥し、冷静に状況を観察する。
その様子を見て、ようやく現実に帰ってきた彼らは口々にこの有様の責任をヴェルーナに押し付けあった。
「そ、そこの騎士見習いが我々を挑発し無抵抗の我々を攻撃してきたのです!」
「私達はここをたまたま通り、食堂の娘を労っただけなのです!それなのに突然襲ってきて…!」
「なっ…!」
何を言い出すのかと思えば、どこまでも自己中心で生きているのか。
そう怒鳴りつけたい気持ちでいっぱいだったが、ゲーティスの登場である程度展開の後先を考える余裕は出来た。
上司のゲーティスの反応を見て自分も判断しようと、ゲーティスを見上げる。依然彼は、声に答えることなく周囲を見回している。
やがて一通り終わったのか、視線は前に向いたまま低い声が発せられた。
「…ヴェルーナ。お前は、ここにいる二人の騎士を無抵抗の状態で攻撃したのか」
その声はいつものゲーティスのものではない。
上司としてのゲーティスだ。つまり、今ヴェルーナに求められているのは上司に報告するにふさわしい簡潔かつ明白な事実だ。
「いいえ」
「お前は二人を挑発したのか」
「いいえ」
「お前は二人に対し戦闘行為を行ったのか」
「……はい」
騎士達は自分達に軍配が上がったことを確信し、隠しきれないほどの喜びを必死に繕って神妙な顔を保っていた。
ヴェルーナは、なにも言わない。ゲーティスもなにも言わなかった。
「…上官に認められたもの以外での戦闘行為は規律で禁止となっている。破った場合、刑罰の対象になる」
騎士達はますます己の勝利を確信し、次に下されるヴェルーナへの刑罰宣告をもはや爛々とした目で待ち構えていた。
しかし、ゲーティスは彼らの期待を裏切った。
「よってそこの二人。お前達のことは私から上官に報告し然るべき刑罰を下す」
「…はっ…?」
優越の座から一気に絶望の谷へと引き摺り下ろされた二人は、信じられないといった表情でゲーティスを見つめる。まさに絶句というものだ。
だが、ゲーティスは動じない。ヴェルーナも特段驚かなかった。
「何故です!?我々は無実なのですよ!すべてはそこの騎士見習いが…」
「私が、この程度の状況すら読み取れないような愚鈍だと本気で思っているのか」
温度すら感じられないその声にごくりと唾を飲み込み、打って変わって真っ青な顔で固まった騎士はどこか滑稽な銅像のようだ。
ゲーティスはぐるりと周囲を見渡し、まず地面に落ちているふた振りの剣を指さした。
「もし本当に無抵抗だったならば、剣が抜き身で落ちているのはありえない。ふた振りということはお前達二人が剣を抜いたということだ。あまりにも多勢に無勢、この状態で突然理由もなく襲撃する人間はいない」
「それは…そいつが突然襲ってきて動転したから…!」
「丸腰なのにか?騎士見習いは規律で帯剣を許されていない。魔術で応戦したというならまだ勝機はあるだろうが、ここに魔術が使用された形跡はどこにもない。要するに武器をまったく持っていない状態で戦闘行為を行ったということは、それ相応の事情があったということだ。よって彼女の報告には虚偽がないことが証明される」
刃のような眼光を向けられ、悲鳴にも似た声を僅かに上げて騎士達は自分達の分が悪いことに気がついた。
そんな彼らを無視し今度はヴェルーナの後ろにいる娘に目を向ける。
「単刀直入に問おう。君は今までの状況を見ていた。君が正しいと思うのはどちらだ?」
唐突に舞台に上げられた娘は驚いて肩を揺らす。胸の前で手を握り、小さく震えていた。
ゲーティスは問い詰めるわけではなく、ただ静かに待っていた。
少しの静寂のあと、覚悟を決めた娘は口を開いた。
「…赤い髪の、黒騎士様が…わたしを助けてくれました…!」
「……決まりだな」
よほど勇気が必要だったのだろう、声は震えていて今にも倒れそうだった。しかし、絞り出した言葉はヴェルーナの無実を証明してくれた。
これに対して抗議の声を上げたのは騎士二人だ。
「どうしてですか!何故、我々ではなくそんな平民どもの言葉を信じるのです!?」
「小賢しい平民に耳を傾けるよりも、貴族である私達を信じることの方が重要でしょう?あなたも貴族ならわかるはずだ、アクイン団長!」
「…貴族ね。そんな目に見えない仮初の地位よりも、私は私の部下を信頼している。私の部下の言葉は、お前達の家名よりもずっと重い」
ゲーティスは断言し、こともなげに騎士達に近づいていった。
信頼している。家名よりも重い。
その言葉がヴェルーナの心をじんわりと侵食し、パキリと心を覆っている氷にヒビを入れる。それがわかった。
騎士達の前に立ち、ゲーティスは真上から騎士達を見下ろすと胸ぐらを掴み顔を近づける。
「二度と、黒騎士団の人間に手を出すな。くだらねぇ噂を流してみろ、家ごとお前らの存在を消して
やる。貴族だなんだなんて知るか、俺を怒らせたことだけを永遠に後悔させてやるよ」
どすの効いたその声と絶対零度の菫の瞳は、まさに魔王と呼ばれるにふさわしい形相だった。
ゲーティスの背中だけが見えるヴェルーナですら、そう思ったのだ。至近距離で魔王を拝んだ二人は果たして無事なのだろうか。
ぱっとゲーティスが掴んでいた手を離すと、奇妙な悲鳴を上げながら己の剣を拾い四苦八苦しながらも鞘に収める。
そのまま振り返ることなく彼らは足をもつれさせながら風の如し速さでヴェルーナ達の前から消えていった。
場を支配していた緊張の糸がふっと解ける。
ゲーティスも先程の雰囲気が嘘のように通常状態だ。
「…あのまま行かせていいの?」
「問題ない。あいつらの上司に報告すれば、俺が手を下すまでもなく地獄を見るだろう。カルヴァとオリッヅは俺以上に不義を許さない」
そういえばあの二人は紅騎士団の制服を着ていた。大方、団長も副団長もいないからという理由で軽率にも業務をサボっていたのだろうか。
だとしたらあまりにも浅はかだろう。どう見たってあの偉丈夫が怒れる姿は、炎が舞い散るほど激しいに違いないのに。
会話はそこで中断し、娘に話しかけると可哀想に、いまだ震えは収まらないようだった。
ヴェルーナはそれにそっと寄り添い、震えが止まるまでずっと背中をさすって娘を落ち着かせることに努める。今この場でもっとも怖い思いをしたのは彼女だ。目の前で死闘が始まろうとしたのだから、どんな人間だって怯える。
ゲーティスは娘が落ち着くまでの間、なにも喋らずただじっとヴェルーナを見ていた。
「あの、本当にありがとうございました…わたしのためにあんな危険な目に…」
「気にしないで。悪いのはあの貴族達だから。私は当然のことをしただけだよ」
平常心を取り戻した娘は、ようやく出たかすれ声でゲーティスとヴェルーナにこれでもかというほど感謝と謝罪を繰り返した。
それに優しく微笑み、首を振ってヴェルーナが答えるとぽっと娘の頬が赤く染まった。
「よかったら、今度食堂に来てください。お礼をさせてもらいたいんです」
「…いいの?」
「勿論です。是非来てくださいね、待っていますから」
待っている、を強く言って娘は一礼し立ち去っていった。
ついに場に残ったのはゲーティスとヴェルーナだけに二人の間に沈黙が流れる。
どれだけ続いたのか、ヴェルーナにはわからないほど重い沈黙だった。