プロローグ 絵本の魔術師
子供の頃、憧れていたものがあった。
それは私に与えられた数少ないもので、繰り返し繰り返しページの端が切れてしまうまで読み返した絵本だった。
なんてことはないただの童話だ。
正義の騎士様が囚われのお姫様を助けに行き、幾多の困難を乗り越えて無事にお姫様を救出して二人は結ばれる、そんなどこにでもあるただの御伽噺だ。
その中で、お姫様を捕らえて深い眠りにつかせた悪い魔術師がいた。
魔術師は孤独で寂しくて、仲間が欲しかった。
でもその魔術師は人にはない特別な力を持っていた。
そのせいで魔術師はどこに行っても嫌われ、石を投げられムチで打たれ罵られてきた。
それでも魔術師は耐えた。
何故ならその魔術師は人が好きだったから。
どれほど裏切られようとも、傷つけられようとも魔術師はただ人を純粋に愛し信じていた。
そんな魔術師の想いが届いたのだろうか、長い孤独の中で魔術師は一人の人間と友人になった。
そのときの喜びをなんと表現すればいいのだろう。天地がひっくり返ったって笑い飛ばせるほど、魔術師は舞い上がった。
魔術師は信じて疑わなかった。その人間が自分にとって唯一無二であり、相手にとって自分もそうであると。
友は自分を愛してくれていると、盲目に信じていた。
人間の目的が自分の力で、それを利用するために近づき裏切ったと知ったとき絶望に陥ってすべてを破壊し尽くしてしまうほど、魔術師は友のことを信じていたのだ。
失意の中、魔術師はついに信じるということをやめてしまった。
信じることをやめた魔術師は、今度は人を憎むようになった。
深く深く、真っ暗闇がどこまでも続く絶望の奈落へ自ら転げ落ちていくように魔術師は人を恨み、憎み、呪った。
そんな中、魔術師は一人の女の子に出会った。
彼女はまるで太陽のような柔らかな香りを纏って、花のような笑顔で魔術師に問いかけた。
―あなたはなぜ泣いているの
信じていた者に裏切られたからだ
―あなたはなぜくるしそうな顔をしているの
出口のない闇の中を歩いているからだ
―じゃあ、どうしたらあなたは笑ってくれる?
私は、私は…
魔術師にとって、女の子はまさしく光だった。
暗闇の中に指した一筋の光。
何も掴めない空間で触れた一輪の花。
だから魔術師は女の子を愛した。
自分の側でずっと笑ってくれるように願った。
いつか女の子が成長し、運命の相手と出会い自分の元からいなくなってしまうとわかっていてもそれでも魔術師は女の子を愛した。
それは、魔術師の中で最後に残った感情だった。
ただ、騎士様がお姫様を助けるだけなのにあの人がこの話を読むと胸がぎゅっと苦しくなって心からなにかがこみ上げてきて視界がぼやけた。
それを見て、あの人は困ったように笑って頭を撫でてくれた。
その手はとてもぎこちなくて、まるで自分が触れたら壊れてしまうことを恐れているようで。
大きな手のひらはひんやりと冷たかったけど、私はその手が大好きだった。
大好きだったのだ。
冷たい手も、苦しくて泣きたくなるような物語も、優しく紡がれる言葉も。
あの人のことが、大好きだったのだ。
今はもう、届くことはないのだろうけれど。