四 羅
閑静な住宅街の一軒家だった。庭の中央に並ぶ幾つもの薔薇のアーチが、常夜灯の青白い光の中で、まるで神聖なものように浮かび上がって見えた。
依頼人の男の他に出迎えは無く、屋内はひっそりと静まり返っていた。
「この部屋です」
促されドアを開けた途端、むせ返るような異臭と肌を刺す冷気に襲われる。僕の後ろに続いた男は酷く咳き込んだ。
「あー、冷房、要らなかったら勝手に止めて下さい。言われた通りドライアイスは外して、袋から出しときました」
男は口元を手で覆いながらベッドへ近寄り、上布団を捲くり上げる。
「さらにひでぇな。部屋に臭い、残ると困るんですけどね」
僕は感情を押し殺すように、奥歯にぐっと力を入れた。
そこには女性が横たえられていた。事前に指示した通り一糸纏わぬ姿だ。傍らには、生前撮影された数枚の家族写真が無造作に置かれていた。
「後はこちらで行います。ご家族の方は、部屋の外でお待ち下さい」
言われなくても、と低く呟きながら男は足早に出て行った。背後でドアがばんと大きな音を立てて閉まる。
僕は仄暗い室内で彼女と二人きりになった。
肩に掛けた大鞄を下すのと同時に、尻ポケットから着信音が流れ出す。まるで図ったかのようなタイミングだ。
「……師匠、これから修繕に入ります」
「ええ」
「やっぱり、来てはくれないんですね」
「当り前よ。店主は一丹君ですもの。大丈夫、貴方はこれまでの三年間、しっかり私の下で修業を積んで来た。独りでも十分遣れるわ」
「はい」
「帰って来たら、璃子さんが持って来て下さった西瓜を頂きましょう」
「はい……それじゃ」
電話を切り、僕は真っ白なシーツに横たわる女性に向き直った。
亡くなった人を目の前にするのは、これで何度目だろうか。
外傷の一つ一つを、ゆっくり指の腹で撫でる。
「貴女は……」
写真を手に取り、生前の彼女の姿を想像した。
電車の玩具に夢中な少年の隣で、愚図る赤ん坊を胸に抱き微笑む唇。海辺で砂の城を作る子ども達を、海風に煽られた麦わら帽子を押さえながら見守る瞳。有りのままの人間であった頃の彼女は、何を思い、何を感じ、何を考えて生きていたのだろうか。
僕は鞄から銀のアタッシュケースを引っ張り出し、手近なスツールの上に手術道具一式を並べた。そもそも欠損を埋めるのが仕事だ。使い物にならない部位が残った状態では、擬態する虫を住まわせる事は出来ない。
「よし」
この三年間、必死で身に着けた医術知識を基に、破損部位から切除して行く。治療というよりも解体作業のようだった。切除部から順に、虫に変換していく。取り出した臓器が本来在るべき正しい姿、それらが持つ機能を鮮明に脳裏に描き、待機している虫へ伝達する。
「お疲れ様、皆」
新たな宿り場の情報を得たサンは隊列を組む様に規則正しく、僕の内部から這い出ているはずだ。左耳から左腕を伝い、僕の指先から欠損部へと潜り込んで行く。肉眼で捉える事の出来ない微細な一匹一匹が、次なる擬態部位に適応しようと膨張変形を開始する。一時間もあれば、まず頭部の復元は完了だ。
この世に生まれ出た時、僕には脳が無かった。
出産するずっと前から検査で分かっていたのだという。本来脳が在る筈の部分が未発達で、母親の胎から出て生き延びることは有り得ないと。それを承知で母は僕を産み、つかの間の逢瀬と引き換えに自らの命を落とした。
父は僕を生かすため、虫による修繕を伏乃姫鞠へ依頼していた。一丹家の寝所で僕を取り上げたのも師匠だったそうだ。僕の脳は全て、あの時彼女から託された虫なのだ。
サンは擬態先で十八年、忠実に職務を全うする。そして十八年目、一斉に脱皮をする。脱いだ皮は、もうそのものだ。
自然界で脱皮とは、成長するための過程だろう。しかしサンは長年培った全てを脱ぎ捨て、一から新たな生を始める。僕の思考はもう、彼らの抜け殻で展開されているはずだ。
役割を失った虫達は一年間、宿主の細胞の片隅で大人しくしている。だが、脱皮からきっちり一年を過ぎると、それまでの従順が嘘の様に嘗て自分の一部だったものを侵食し始める。元々は彼らのものだったのだから、致し方ないと言えばそうなのだ。
それでも僕は抗う事を選んだ。期限である来夏、七月十五日までに、体内の全ての虫に移住先を提供する。繋ぎ留められたこの命を、彼らと共有していたこの脳を、僕だけのものとするために。
「……ご免なさい」
僕は一体誰に対して謝罪をしたのだろうか。
一心不乱にメスを動かす右手が、僕とは別の意思を持った生き物に思えた。
玄関を出て呆けた様に空を見上げた。
何時の間にか辺りは明るくなっていた。朝日が寝不足の目に眩しく差し込み、思わず顔を反らす。目線の先にはここを訪れた際に見た薔薇のアーチがあった。葉は枯れ掛けており、白いはずの薔薇の花びらの多くが萎びて変色していた。
「ありがとうございました、先生」
しっとりとした女性の声で、僕は振り返る。
玄関ドアを背に、依頼人の男、父親と思われる中年男性、小学生くらいの女の子、そしてあの母親が一列に並んでこちらを見ていた。ただ一体、彼女だけが豊かな微笑みを浮かべ、生気を宿した瞳を潤ませて、深く深く頭を下げた。
帰り道、僕は遠回りをして、河川敷に沿う遊歩道を歩いた。シャワーで濡れたままの髪が、生温い風を受けて膨らむ。酷く不思議な気分だった。
今まで僕を構成していた虫の多くが去って行った。彼らは次の一廻りをあの女性と共に過ごす。虫を移す術を知らない彼女は、その後朽ちる事になるだろう。
果たして誰よりも生き生きと浮世を歩む彼女を、人間と呼んではいけないのか。彼女の紡ぐ言葉は、最早人の言葉ではないのか。
何故、僕の父は、母を繕ってくれなかったのだろう。
脳を虫で代替していると聞かされた六歳の誕生日の、押し潰されるような胸の痛みを、今でも鮮明に思い出せる。
不安、焦燥、悲愴、絶望。その全てが虫を介して発せられる、僕は一体何者なのか。その問いの答えもまた、未だ見つけられてはいない。
近くの野球場から、拡張されたラジオの音声が聞こえた。毎年夏になると繰り返し耳にする、あのメロディが流れ出す。立ち止まり、晴れた空を仰いだ。どうやらラジオ体操が始まるらしい。
「おーい、あっくーん!」
僕を呼ぶ聞き慣れた声がした。
グラウンドの中央、思い思いに散らばった人々の真ん中で、大きく手を振っている人物がいる。
「璃子」
向日葵の様な朗らかさで笑う彼女を、七月の太陽が燦々と照らし出していた。