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三 久

「はあぁ」

 璃子の後ろ姿が完全に見えなくなったのを確認し、大きな溜め息を吐いた。緑のネットが食い込んで左指の先が少し紫に見える。僕はさらに重くなった気がする西瓜を、よいしょという掛け声と共に縁側に下した。

「焦りましたよ師匠」

「可愛い女の子にデートの約束をされた事かしら?」

 僕の師匠、伏乃姫鞠は目を細めて笑っている。

「え、今の聞こえてたんですか、って違いますよ! 師匠が変に璃子の会話拾っちゃうから。突然姉とか言い出すし」

「あら、私はずっと前から貴方の姉のつもりよ。永遠の十七歳だもの」

 師匠は太腿辺りのスカートを少し持ち上げ、首を傾げる様な仕草をした。若さのアピールにしては昭和臭い。

「十七って。師匠、それじゃ妹になっちゃいますよ」

「そうだったわね。なら十九にするわ。永遠の十九歳」

「それ、最早永遠じゃないでしょ」

 確かに伏乃姫鞠の外見は若い。実年齢を聞いた事はないのだが、亡くなった僕の祖母さえ彼女をお師匠様と呼んでいた程だ。十九は流石に無理がある。せめて三十五といった所か。

「しかも養蚕って」

「サンを養っているのだから、ヨウサンで嘘ではないでしょう?」

 彼女はくすくすと悪戯を仕掛けた子どものように笑った。

「璃子は蚕って、はっきり言ってたじゃないですか。蚕とサンじゃ、共通点なさ過ぎて誤魔化せないですよ。色すら真逆だし」

 僕はサンの黒光りする表皮を思い浮かべた。

「あら、知らないの? 蚕も孵化した当初は黒いのよ。脱皮毎に白くなるの、絹の様にね。人間とまるであべこべ。そこが好きよ」

「師匠、それは……」

 怪しげに輝く彼女の瞳に、それ以上言葉を紡ぐ事が出来なかった。好きと言ったのは虫の方だろうか、それとも人間の方だろうか。僕の中の何方付かずの灰色が、師匠にはお見通しの様な気がする。瑞々しい白でも、芯の通った黒でもない、灰色。それは酷く歪んで映っているかもしれない。

 無性に、璃子の声が聞きたくなった。


 次の来客があったのは、その数十分後だった。

 西瓜を冷やすため、玄関脇の井戸から水を汲み上げていると、俯いたまま通りを歩く人影が目に入った。一人だけ纏う雰囲気が他の通行人と明らかに違う。僕は音を立てぬよう、水を張った盥を手に家屋へ戻った。

 それから呼び出し音が鳴るまで、然程時間は掛からなかった。僕は廊下に置いた待機用の椅子から立ち上がり、ゆっくりと店名の書かれた通話ボタンを押した。

「あの、何かご用ですか」

 相手は黙っていた。沈黙に鬱屈した重みを感じる。矢張りそういう客なのだ。

「ご用が無ければ、お引き取り下さい。失礼します」

 僕は拳を握り締めながら、自室に籠った師匠の元へ向かった。

 それから暫く、息を詰め、戸棚の上の置時計を眺めていた。何度も握ったTシャツの裾はすっかり湿ってしまった。それでも、再度通話ボタンを押す頃には、幾分動悸は和らいでいた。

「何か、ご用ですか」

「虫、ここで合ってますよね?」

「はい。今開けます」

 戸の前には男が立っていた。髪を染めた若者で、僕より少し歳上に見える。片耳のピアスが日を反射して一瞬だけ強く光った。

「こちらです」

 彼は僕の後に付いて靴を脱いだ。横顔を盗み見たが、この半時で決心が揺らいだ様子はない。僕は黙ったまま奥の間へと彼を案内した。

「こんにちは」

 座敷の隅から師匠が澄んだ声音で挨拶をした。艶やかな牡丹柄の着物を纏っている。簪から垂れた蝶の飾りが黒髪の上をくるりと舞った。

 敷居を跨ぐや否や、男は師匠の方を向き、素早い身の熟しで畳に頭を擦り付けた。

「お願いします! 家族を助けて下さい!」

 熱の籠った嘆願に、師匠は涼しげに応じる。

「ご用件は店主がお伺いしますわ」

 心做しか胃が痛い。僕は男の後ろを回って上座へ静かに正座した。

「店主の一丹ひとにです。まず、具体的な症状を教えて下さい」

 男はあからさまに躊躇した。当然だ。きっと悠然と構える師匠を店主だと思ったのだろう。貧弱で頼りなげな学生を宛がわれ、不安を覚えたのかもしれない。僕自身、全くの同意見だった。

 しかし昨日まで店主だった彼女は外方を向いていて、助け船は期待出来そうにない。溜息を我慢する僕の顔を数秒間見つめた後、彼は諦めたように話し始めた。

「あー、虫を使いたいのは母です。包丁の刺し傷が十カ所以上と、頭は硝子製の灰皿で半壊で」

 それは、殴られたような衝撃だった。

 僕は片手で口元を多い、込み上げる吐き気を必死に抑えた。ああ……僕にそれを全て繕えというのか、この男は。

 先程見せた激しさはどこへやら、男は事務処理の様に母親の症状について語った。

「……では、今は病院に?」

「いや警察に連絡してたら、ここへは来ませんよ。とりあえず空気に触れないようにして、一応冷房は効かせてて」

 どうも話が上手く噛み合わない。

「傷害事件を通報しなかったという事ですか? 母親を重傷のまま自宅に?」

「死後三日です」

 呆気に取られ僕は言葉を失った。流石の師匠もほんの少し眉根を寄せたようだった。

「死後三日って……既に亡くなってるんですか? それじゃあ、あなたのお母さんは救えない……」

 この店が扱う虫、サンは高度な擬態能力を持つ。単なる形ばかりでなく機能やその影響力まで、有生物なら何でも忠実に再現出来る。勿論それが人間の臓器であってもだ。

「僕の仕事は修繕です。虫に出来るのは、欠損箇所の血肉となり補填する事。亡くなった人を虫で埋めたって、それは動き回る人形みたいなもので」

「はい、それで構いません」

「え、だからそれじゃあ……」

「それって、とりあえず生きてる風に見えるんですよね? 十分です」

「それじゃあ、お母さんを救った事にならない!」

 僕は思わず声を荒げて立ち上がった。

 男は全く動じなかった。こちらを睨み付ける様に見据え、淡々と続ける。

「救って欲しいのは家族なんだって、あれは違う。あれが生きてる事にすれば、父は前科持ちにならずに済むし、妹も何も心配せず学校へ通える。それで良い」

「そんなっ」

 何時の間にか直ぐ隣に立っていた師匠が、取り乱す僕の肩に手を置いた。彼女は微笑を湛えた顔を隠すように、着物の袖で口元を覆っていた。

「お客様、私共は事情を深く詮索するつもりはございません。虫は勿論お分け致します。そうでしょう、一丹店主」

 少しお待ち下さいと言い残して僕は座敷を出た。後を追う様に師匠も廊下へ出て、後ろ手ですっと襖を閉めた。

「僕、今回の件は……」

 引き受けたくない、それが本音だった。

 肉親を早くに亡くした僕には、家族の記憶は殆ど無い。それでも、あんな母子の関係が在って堪るものかと思った。

「僕は間違ってますか」

「いいえ。でも、私は正しいとも言わない。分かるでしょう」

 噛み締めた唇から鉄の味がする。師匠の言葉の意味を、本当は痛い程よく分かっていた。

「貴方の遣るべき事は決まっているわね」

 店主のすべき事は単なる修繕作業で、対象に纏わる色々について精査する事ではない。

 この先の自分のため、一年後の未来のために、この店の店主になった。僕が生まれたあの時から、このレールは敷かれていたのだろう。それでも結局、僕自身が選択した道でもある。僕は心を、そして他人を犠牲にするしかない。得られるのは、鈍い痛みと曖昧模糊とした将来だ。

「正直、初日でここまでの案件が舞い込むとは、私も思い至らなかった。でも良い機会だわ。成人女性一人分。これだけの量なら、かなりの虫を一度に手放せる。貴方にとってはそれだけ、目的達成へ近付ける。そうでしょう?」

 師匠は優しく、僕の髪を梳く様に撫でた。

 僕は、力なく頷くしかなかった。

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