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二 那

「何か、ご用ですか」

 インターホンのマイク越し、一瞬の沈黙に、僕の心臓は大きく跳ねる。

「ちわーす、宅配便でーす」

「あっ」

 張り詰めていた緊張が行き場を失い、汗となって額を流れた。

「はいっ、今出ます」

 急いで居間に向かう。箪笥の抽斗から印鑑を探し出し、土間に駆け下りて引き戸を開けた。

 僕の暮らすこの旧家には、築七十年の木造建築とは似ても似つかぬインターホンが二つある。右の戸柱のものには伏乃姫ふしのきと印字された名前シール、左の戸柱のものには店の名刺が貼ってあった。

 上質な和紙で作られた一点物の名刺は、今朝新調されていた。古風な筆文字で、“虷”という文字と開店時間、そして店主の名が記してある。そう言えば、店名“虷”はカンと読むのだろうが、正しい読み方は未だ知らないままだ。

「ちぇっ、宅配なら右の押してよ」

 ぼやきながら靴を脱ぐ。荷物は伏乃姫まり宛ての小包だった。ティッシュボックス程の箱だが、大きさの割に随分とずっしりした重みがあった。

「何だろう、また虫関係かな」

 印鑑を仕舞うために一旦居間へ戻ろうと踵を返す。刹那、再度インターホンが鳴った。

 心拍数が跳ね上がる。僕は左右どちらのインターホンが鳴ったのか失念したまま、目の前で明滅する通話ボタンを押した。

「なっ、何かご用で」

 慌てたせいか言葉が閊える。

「あれ、あっくん? だよね。あたしだけど」

 璃子の声だ。直ぐに、鳴ったのは右のインターホンだったと気付き、顔がかっと熱くなる。「何かご用ですか」の一言は仕事用の決まり文句で、知人に向けるには何とも言えない気恥ずかしさがあった。

「璃子、ちょっと、待って」

 昼のあの宣言は本気だったらしい。

「カバン、ちゃんと返したのに」

 戸を開けると、午前中と同じ着崩した制服姿の彼女が立っていた。半袖から伸びる健康そうな二本の腕が、ハンドボール程の西瓜をぶら下げている。

「あっくん、これってもう開店中?」

「うんまあ」

「で、結局ここ何のお店?」

 璃子には店に関する事はほとんど話していない。蠢く後ろめたさから、彼女の目をまともに見ることが出来なかった。

「あー、一般向けの店じゃなくて。専門っていうか、紹介された人が来るとこだから」

「ふーん」

 尋ねておきながら、璃子は然程興味のなさそうな声を出した。小玉西瓜を緑の網ごと、ぽんと手渡される。

「これお土産。お祖母ちゃん家の畑で採れたやつ」

「あ、ありがと」

「それで、今お客さんは? 来てる?」

 嫌な予感がした。

「いや、まだだけど」

「そうなんだ。じゃあちょっとだけ、上がっても良い?」

 矢張りそう来たか。

 彼女を開店時間中に家、元い、店に上げる訳にはいかない。どうにか上手く断るにはと口を開き掛けた時、横手からふいに声がした。

「あら、可愛らしいお客様ね。こんにちは」

 長い黒髪を優雅に揺らし、縁側を歩いて来た家主が会釈する。菫色のワンピースの裾が南風にふわりと膨らんだ。

「こんにちは」

 璃子もお辞儀を返した。肩に触れるくらいの髪が元気良く弾むように揺れる。

「初めまして、姉の鞠です」

「あ、私、あこがれ君のクラスメートの武忍徒むしのと璃子です」

「貴女が璃子さんね。いつも弟がお世話になっているみたいで」

「あ、いえ。こちらこそ、いっぱいお世話になってます。その、憧君ちょっと借りられないかなって思って、来てみたんですけど」

「ごめんなさい、これからお客様が来られるの。また今度お誘い頂けるかしら」

「はい、分かりました。お忙しいところ、突然すみませんでした」

 聞き訳良くぺこりと頭を下げた璃子は一度僕らに背を向けたが、そのまま一回転して顔を上げた。

「あの、鞠さん。一つだけ良いですか?」

「ええ、何かしら?」

 鼓動が速くなる。

「ここって、何のお店なんですか?」

 僕の動揺を他所に、二人は和やかな雰囲気で微笑み合っている。

「そうね、璃子さんはヨウサンって知っているかしら」

「ヨウサン? ヨウサン……」

 イントネーションを幾通りにも変えてぶつぶつと呟いてから、漫画のように手槌を打ち、璃子ははしゃいだ声を出した。

「養蚕! もしかして蚕から糸を作るあれですか?」

「あら、物知りね。うちはヨウサン業を営んでいるのよ」

「へー凄い! 本物見た事ないです。家の中で飼ってるんですか?」

 璃子、質問は一つだろ、と心の中で突っ込みを入れる。僕は西瓜の網を持ったまま、酷い手汗をTシャツの裾で拭った。

「ええ。閉店後なら見て頂く事も出来るのだけれど」

 見せられないってば、と喉まで出掛かった言葉を、空気と一緒にぐっと飲み込んだ。もう無理だ。これ以上、二人の会話をポーカーフェイスで聞き続ける気力は残っていない。

「あ、ううんと、大丈夫です。私、実は虫とかそういうの、ちょっと苦手で」

「そう、それは残念ね」

 二人の呼吸がほんの一瞬揃った隙を狙い、僕は口を挟んだ。

「んじゃ、そういう事だから。ごめん璃子。あと西瓜、ありがと」

 精一杯の笑顔を繰り出し、璃子に帰宅を促す。彼女はうんと頷き、再度縁側に向かって頭を下げた。

「鞠さん、お邪魔しました。今度はお忙しくない時に伺いますね」

「ええ、お待ちしているわ」

 家主の口からごく自然に流れ出て来るのは、勿論社交辞令だろう。だが相手は璃子だ。きっと真正面から受け取って、数日の内に再来するに違いない。

 璃子は帰る素振りを見せながら、僕の腕をぐいと引き寄せた。

「ちょっと、あっくん」

「え?」

 よろけた拍子に璃子の顔が近付き、耳朶がかっと熱を帯びる。彼女はそんな事はお構いなしに、囁くような声で耳打ちした。

「お姉ちゃんいるなんて初耳だよ」

「……えーと、言ってなかったっけ」

「聞いてない。凄い美人じゃん! 内緒にしてた罰として、駅前のクレープ、今度奢って貰うからね」

 璃子の唐突な理不尽に、思考回路が追い付かない。

「え、ちょっと」

 当の彼女は小声で言いたい事だけ告げ終わると、呆然とする僕を残し、あっさりと帰って行った。

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