一 伽
「何か、ご用ですか」
戸の木枠を叩く音に答え、女主人は外へ声を掛けた。
真夜中の事、急ぎ用意した灯の明かりが、手元で踊る様に揺れている。女は注意深く聞き耳を立てたが、戸を隔てた向こう側から返事は無かった。
雨の降る晩だった。
訪問客は頻闇に佇み、口を噤んだままじっと耐えていた。
「ご用が無ければお帰り下さい。ここは、生半可な心構えで、訪れる事の出来る場所ではございません」
冷淡な女の声音が磨硝子を微かに震わせる。
客は黙っていた。
女は戸を睨み付ける様に見詰めた後、奥の間へと去って行った。
雨音が止む気配は無い。
半時を数えてから再び女は灯を携え、嫋やかに闇へ向かって呼び掛けた。
「何か、ご用ですか」
「虫が」
噛み締めながら客は言葉を口にする。うら若い男の声だ。
「必要だ」
男は女主人の返答を待った。
「その意味をお分かりでしょうか」
「ああ、どうしても、息子を」
「承知致しました」
女は錠前に手を掛けた。小声で虫に、別れが近い事を告げる。
それは肯定の意を示すように、きしきしと笑ったようだった。
「で?」
銜えたままのストローを牛乳パックからするすると外し、璃子が言う。先端からぽたりと落ちた白い液体が、制服の赤いリボンに染みを付けた。
「で? って何」
開け放たれた窓から侵入した蝉の音が、容赦無く教室内に充満している。吸い込んだ生温い空気と一緒に、音が体内をくまなく巡る。自分の輪郭が曖昧になって、夏に溶け込んでしまうような気がした。
「だから、続きは?」
ふがふがと璃子はストローを揺らした。さらに一滴の牛乳が、今度は外されたボタンの隙間から、彼女の鎖骨の下の窪みへ垂れる。僕は思わず目線を斜め上へ反らした。
丁度黒板の上の掛け時計が目に入る。時刻はぴったり十二時だ。
「行儀悪いよ、璃子」
「いーから、続き! はっ、やっ、く!」
「うーんと。男は無事に虫を貰えて幸せになりましためでたしめでたし」
僕は一息に結末を言うと、大きく伸びをした。机の横に掛けた黄色のバックパックを掴む。
「は? めでたしとか意味分かんない。ちゃんとした続きは?」
璃子はバンバンと机を叩いて抗議する。
「気になって夏休みの宿題、手に付かなくなっちゃうからさあ」
ここまで話に食い付かれると予想だにしなかった僕は、苦笑しながら立ち上がった。
「璃子の宿題はいつもの事でしょ」
中身のほとんど無い、使い込まれたバックパックがへなへなと背中へしな垂れた。今日の授業は午前中の終業式のみ、荷物は昨日までに全て持ち帰り済みだ。この軽さなら、割と早く走れるかもしれない。
「あ、ちょっと、あっくん。どこ行くの?」
「もう帰んなきゃ。今日から本格的に店の手伝い。十二時半には開店だから」
一瞬不満げに唇を付き出した璃子は、何かを閃いたようにぱっと表情を明るくした。
「お店って、家と一緒になってるんだよね? 今日はずっと店番?」
「まあ、そうだけど」
「それなら後で、家行っても良い?」
「だーめ」
「何で? 店番しながらさっきの怪談、続き教えてよ」
「だから、怪談じゃないって」
僕は数分前の、あの話を選択した自分を恨んだ。
友人との昼食時、暑さを紛らわす良い方法は無いか、という話になった。その中で彼女は、背筋のひやりとする話をしようと言い出したのだ。咄嗟に何も思い付かなかった僕は、小さい頃に聞いたあの話を披露し掛けた。だがあれは、軽々しく口にするにはやっぱり相応しくない話だっただろう。
「とにかく駄目ったら、駄目。じゃ、お先」
笑いながら一歩を踏み出した瞬間、どういう訳か足が竦んだ。背中で揺れたバックパックの重みの無さに、急に不安が込み上げる。何か大切なものを忘れている、そんな感覚だ。足りない、中身が、満たされた安心感が、足りない。
「ほらほらあっくん、そんな所に立ち止まらなーい」
背中をばしんと叩かれ、はっと我に返った。
立ち止まったままの僕を追い越して、彼女は廊下へ弾むように駆けて行く。璃子の朗らかな笑い声が人気の無い校舎に響き渡った。
「後で家! 行くからねーっ! それまでそれ、人質!」
「え、人質?」
見ると僕の足元に、璃子の青いスクールバッグが放り出されてあった。良く分からないキーホルダーやぬいぐるみがわんさかと実った、実に重そうなバッグだ。
狭まっていた視界が一気に開けた気がした。
「ちょっと、璃子!」
僕はじゃらじゃらと楽しげな音を立てるスクールバッグを手に走り出す。不思議と蝉の煩さは気にならなくなっていた。
そうして僕らは、一学期の余韻を学び舎に残したまま、真っ盛りの夏へと飛び出した。