4.畦道
いつまでも呆けていたら、取り残される。今、この人に見捨てられることが、無性に怖い。
混乱も恐怖も飲み込んで、蓋をして。目の前の人に置いて行かれないように必死で取り繕って説明を聞いた。
衝撃の説明を受けたあと部屋を出る。事前に森津木さんに「部屋を出ても驚かないでね」と言われていたが、出てみて納得した。
「私を返しなさいよ!!この化け物!誘拐犯っ!人殺しっ!」
「何で俺がこんな目に合わなきゃならないんだよっ、お前どうにかしろよ!」
大音量で男女二名が喚き散らしていた。
「こんなBGMが有ったら落ち着いて説明もできないと思って、防音させていただきました」
苦笑いで森津木さんが教えてくれる。確かに不安定な精神状態でこんな怒声を聞いたら更に不安になって、まともに説明を聞けなかったろう。
今だって精神状態が安定したとは、間違っても言えない。
ずっと聞いていたら引きずられそうになるかもしれないし、そそくさと靴を履いて外に逃げ出した。
午前八時。
日も登って空は明るい。冬の空気がひんやりと、人気のない畦道に漂っている。
「今出た施設の後ろに見えるのが御山だよ。送り火が灯るときは山の中腹に灯る。ええと、はいこれ。大分簡素化してしまったけれど、僕の書いた地図。あげる。地図を確認しながら移動していこう」
今の霧がかったような思考で、道を覚えるのに不安があったからとても嬉しい。お礼を言って地図を受け取る。
なるほど、確かに簡略化されているが、今の自分にはこれくらいが丁度良い。今の自分の場所はわかる?と聞かれて御山の前の施設を指す。
「うん、正解。施設を出て二十分くらい畦道を歩いたらアパートだよ。
道中はずっと田畑が広がっていて、無人販売所があるくらいだから迷わないだろう」
歩き始めると、言われた通り、見渡すばかりの田畑が広がっている。
「ここでとれる野菜は現世の物と同じだよ。土が肥えているからか比較的美味しい野菜が取れる。味が濃いともいうかな。
黄泉戸喫って知っている?あの世の食べ物を食べたら帰れなくなるっていう思想なのだけど、ここの食べ物は大丈夫だから。安心して食べるといいよ。もう朝食の後だけど、気になる人はいるみたいだから伝えとく」
そんな思想有るんだ。へえ。
この郷の地形などを教えてもらっていると、前方に何か見えはじめた。屋根だけある粗末なバス停留所みたいな所に籠が並べてある。
「あの屋根がある所は、何ですか」
「あれは無人販売所だよ。寄ってもいいかい?いや、僕は寄る。ゆっくり来て」
そういって森木津さんは走り出してしまった。と言っても二十メートル程だ。すぐに追いつく。
「ここで売っているものは市や商店街で買うよりも安く買えるよ。大根と人参…。白菜と、長葱も買おう」
自分が知っている食材で少し安心する。森津木さんは五百円玉を籠に入れて、斜めかけの鞄から大きめの袋を取り出して野菜を入れた。
あ。知ってる、これ。エコバック。主婦みたいだ。すげえ。驚いて見ていると二コリを笑って爆弾を落としてくる。
「他人事みたいに思っているだろうけど、寮でもアパートでも自炊だよ?
管理舎内は食堂もあるけれど、昼だけだから。無理したら、夕飯もいけるかもしれないけど。
パンは有るけどコンビニないし、店でカップ麺とか買おうとしたら、高いからね?輸送の手間賃で千円位するから」
横っ面を思いっきり叩かれたような衝撃だった。生きるためには食事が必要だ。当たり前だ。かし。俺は料理なんて、ほとんどしたことが無い。生きていけない。
「ちょ、待ってください。俺自炊なんかできないですよ、うわどうしよう」
一か月三十日として一日当たりの支給額は約千六百円。千六百円全てを食費に使うわけにはいかないだろう。そうしたらインスタント食品にやたらと頼るわけにはいかなくなる。
あ。ここって税金どうなってんの。いや、無いか。人外の郷で納税の義務とか無いわ。
でも、支給金は郷から出るから、どっかで調達してるはず。
聞く?森津木さんに聞いちゃう?「この郷に納税の義務有りますか?」って。
無いわ。迷い込んだ初日に納税の義務とか聞くって無いよな。
うーん。俺のライフスタイルが全く立てられない。やっぱり、説明を最後まで聞いて分からなかったら正午間際に聞いとかないと。
「まあ頑張って。君、財布持っているだろう。
通貨は同じだから君は自分のお金をこの郷でも使うことができるよ。迷い人の大半は道中で混乱して手荷物は落としてしまうから、手で持つタイプの鞄を離さなかった君は運が良かったよ。
他の人と比べて少し余裕ができる。この郷に着いて初期に心に余裕があるかどうかは明暗を分けるからね」
鞄、放り投げないで良かったと心底思う。あと晩飯がやばい。生でかじれる野菜って何だっけ。ニンジンならセーフか?ニンジンにそっと手を伸ばす。五本百円なら買っても…。
「今はまだやめといたほうがいい。君はニンジンぶら下げて案内、挨拶に行くの?君、このままだったら呼び名がニンジンになると思う」
シャッと手をひっこめる。なんつー恐ろしいことを。そういえば呼び名?考えないとなあ。
「あと、文字も同じ日本語だ。無人販売所の文字が読めただろう?
ただし、古めかしい言い回しや、旧漢字、旧字、草書体といったものも全て含めて、になる。
かつてこの国で使われていた言葉全てだ。まあ、管理舎とかは今の時代の日本語で文章を作るから、さしたる問題はないだろうけれど」
え、それ、管理舎以外で現代文じゃないことがあるってことでしょ?大丈夫かな。…古典の成績は悪くなかったはず。まあいざとなったら、読めませんって白状したら許してもらえないかな。
歩き始めた森木津さんの隣に並ぶ。
「この郷の者は朝が弱いものが多い。夜に騒いでいるからね。で、朝活動するような者は農業をしていたりするような比較的温厚な者が多い。
だから君にとって朝は安全性が高い時間帯だと考えて良い。ほら、あすこで農作業をしている者がいるでしょう?農作業に夢中で君という餌に気付いてない」
餌。今、餌って。いやまあ、そうなんだろうけど、ショックである。
「おはようございまーす」
いきなり大声で森木津さんが挨拶をして手を振った。農作業をしていた人がこちらに気付いて挨拶を返す。
「おはよーさん。隣のあんちゃんは昨日の迷い人かい?うちの大根は美味いから是非食べてくれよおー。そこの無人販売所のだぁー」
気さくに両手をブンブン振ってくれるから、こちらも振り返す。
「はい、よろしくお願いしまーす、大根もぜひー」
「おーう、じゃあー気いーつけてなぁー」
手を振り終えてから気付く。あ。さっきルールで三日以内に喋るとか、なかったか?ギ、ギ、と顔を森津木さんの方に向ける。
「…あの、森津木さん、さっき、ルールで…」
「彼が襲ってきそうに見える?」
あ…。いや、あの人は気を付けてと言った。友好的だった。落ち着け。判断を間違えるな。
朝から農作業をするような人は温厚な者が多いのだと、説明を受けたじゃないか。
でも、それだけだ。確定できるほどの情報は揃ってない。
「…すみません、分かりません。
あの人は俺に友好的にしてくれました。温厚そうでした。
でも、無害だと判断できるほどの材料を俺は持っていません」
「そうだね。安易な判断は命取りだから、君の答えが正解。サービスで教えてあげよう。
彼は餌としての迷い人には一切興味のない者だ。朝また彼に会った時は挨拶をするといい」
餌としての俺に興味を示さない人もいるってことか。さっきの人は皮膚が緑だった。笠をかぶっていたから顔は見えなかったけれど、多分人外の容姿をしているのだろう。
だんだん、思考がクリアになって来た。
やっぱり、森津木さんはとても俺に親切にしてくれているんだ。説明担当者が業務外の生き残るための助言をしくれている。
分かりやすい情報としては、朝は比較的安全だとか。農作業の彼は、餌としての俺には興味が無い安パイだとか。
きっと、さっきの挨拶は、俺と農作業の彼が顔見知りになるように取り計らってくれたのだろう。
何より俺にとって、郷の人が全て敵じゃないという情報は精神衛生上、とても重要だ。ああ。朝、彼に会ったら必ず挨拶をしよう。あの無人販売所の大根も絶対食べる。
そう決意を固めていると、前方に建物が見えてきた。視界を遮るものがない畦道は見渡しが良い。着くまでにはまだ数分かかるだろうが、多分あれは。
「ほら、見えてきた。あれがアパートだよ」