プロローグ ~曲がり角で虎とごっつんこ~
曲がり角で野生の虎とぶつかった。
消えゆく意識の中で咆哮を確かに聞いた。
――ある平日の朝。
「こんな時に限って目覚まし時計が壊れるなんて……、全くついてないんだから。
でもこのペースならギリギリ間に合うかな」
ジャムがたっぷり塗られ真っ赤に染まった分厚いパンを咥えながら住宅街を全力で駆けていく彼女の名は小沙花 彩音、十六歳の女子高生だ。
肩まである黒髪は風のようになびいて彼女の軌跡を辿り甘めのほんのりとした香りを残していく。
きりっとした顔立ちは出来る女の雰囲気を醸し出し一輪のバラのように華麗で走る姿はそれだけで芸術だ。
ひとたび彼女が街中に繰り出せばスカウトや取材が後を絶たずろくにショッピングも出来ないだろう。
しかし人は見た目に寄らず千年に一人の逸材のような彼女は文武両道や才色兼備、綽約多姿とはかけ離れている。
運動は走っても飛んでも投げても打っても何でも出来るため部活の助っ人として大活躍している。
だが勉強は全く出来ずテストの順位はいつも下から数えたほうが早い。勉強をしていないわけではないが記憶力がニワトリ並みのため暗記しても気が付けば脳から旅立ちそのまま帰ってこないのだ。
初めてそのことを知った時は神は安易に完璧な人間など創造せず人に何かしら短所を与えるものだと改めて感じた。
年頃の女の子だけあって恋に焦がれる彼女は今日も無駄に元気いっぱい。
そんな彼女と俺は幼馴染で近所に住み同じ高校に通っているため一緒に登校している。
友達からは「あんな美人と幼馴染なんて羨ましい」や「そんなことが実際にあるなんて死んでしまえ」など妬みと羨望が混沌とするセリフをよく言われるが当事者からしてみればあの騒がしく馬鹿な女の世話をしなければならないので非常に厄介で煩わしいだけである。
という旨を最初は言い返していたが嫌味か!や自慢か!と言い返されこれまた非常に面倒くさいので最近は聞き流すことにしている。
今朝、その彼女から大幅に寝坊したから先に行っててと言うメールを貰った。
だが今日は祝日の為、学校は休みのはずである。流石、天性のボケマシーン。定番はきっちり逃さない。
勘違いしているなと勘付いた俺は『今日は休みだ。ボケ』と打ったところで消す。
そうだ、どうせなら驚かしてやろう。
そう思い立つが早く急いで私服に着替え彼女の家の前に向かう。
向かう途中で彼女に『先に行ってるぞ。なるべく急げよ』と返信。これで祝日であることに気付く可能性は天文学的数字にまで減った。
彼女の家は俺んちの四つ隣だ。やけに近い。
あっという間に家の前に着けばさっと電柱の陰に隠れ息を潜め奴が出てくるのをじっくり待つ。
十分ぐらい待っただろうか。何もしないでいるというのも辛いものであり退屈は時として恐怖にもなりうる。
早速、来たことを後悔し悔やみ始めたが帰ろうとは決してしない。彼女を騙すまでは諦めないと決心したから。
それから五分後、ようやく目当ての彼女が現れた。
行ってきますと言いながら玄関ドアを開ける彼女。バタンとドアが閉まるより早く彼女は走り出した。
飛び出して驚かそうとしていた俺の前を猛スピードで通り過ぎる。
そのあまりにも速過ぎる走りは俺に飛び出す間さえ与えない。
このままでは誰も居ない学校に行くことになってしまう。そうすれば俺が何をされるか分からない。
殴られたり蹴られるなどの肉体的苦痛ならまだしも陰口や誹謗中傷など精神的苦痛を与えられれば俺の心は小枝より簡単に折れてしまうだろう。
俺は後を追うように急いで走り出す。
そんな俺の前方を疾走する彼女のパンは脅威的な速さで減っていく。
むしゃむしゃとパンを器用に食べていく姿はまるでヤギのようだ。
もしこんな食欲旺盛のヤギがいたら恐らく世界中の草という草は食い尽くされていただろう。そして大気中の二酸化炭素濃度が増加し平均気温の急上昇、草食動物の死滅が相次ぎ食物連鎖の崩壊を招き世界は瞬く間に終焉へと向かう。
俺は彼女が来世、ヤギにならないように強く願う。人間が存続するためにも。
俺は自宅に寄り自転車を持ち出した。
走りで彼女に追い付くのは不可能なのでこういった機器に頼るしかない。
すぐさまサドルに跨るとペダルを強く踏みチェーンを回す。この何気ない動作を高速で終わらせ光速とまではいかないがかなりの速度で追う。
気が付くとあんなにデカかったパンはしっかり彼女の胃袋の中に吸収され口周りにべったりとついた真っ赤なジャムとオシャレな制服に点々と着いたパンくずのみがそこにパンがあった証拠として残っただけとなった。
しかし何度見ても恐るべき吸引力である。流石、「吸引力の変わらないただ一つの女子高生」と噂されるだけあるな。
言っているのはごく一部の人間のみだが……
パンという障害が消えたため彼女はより速度を速めた。
パートに向かう制服姿のおばさんの自転車も近所のホームセンターへ買い物に向かうおじさんの原付きをも軽々しく追い越していくその足は羽のように軽く風のように素早い。
彼女の周りは砂埃が舞い上がり突風が吹き荒れ騒音が鳴り響く。
「キャー!」「何だこの風は!」「スカートが!」道行く人々は平和で安全だった住宅街に突如現れた暴走女子高生に悲鳴や衝撃を隠せない。
だが近所の人たちにとっては週に一回の恒例行事みたいなもので「あぁ、またか」と唐突などしゃ降りに向けるような冷たい目や野良猫にエサを与えたときのような微笑ましい目で見ている人もいて性格の違いが分かりやすい一種の性格判断のようだ。
因みに俺はもちろん前者だ。これに微笑ましい目で見る気は毛頭ない。選挙時のやけに沢山走り回ってる宣伝車より騒々しいし近所迷惑だ。
(パンをくわえながら登校なんて少女漫画の定番みたい。
もしかすると曲がり角で運命の男と衝突しちゃうかもしれないわ。
そんな今時、プロットの時点で破棄されそうなド定番な展開が起きるのかな……
でも現実は小説よりも奇であるということわざもあるしゼロパーセントでは無いはず。
いや~、そしたらどうしよう?もしかしたらあんなことからこんなことまで起こっちゃったりして)
彼女はそんな妄想に勤しみ微笑しながらにやけながら走る。
その姿ははたから見ればただの変人でしかない。
通り過ぎる通行人はそんな顔を見て軽く引いている。そりゃ、そうだ。
もし俺が夜道、こんなのと遭遇したら間違いなく逃げる。下手するとトラウマになりかねないレベルだし。
通行人が勝手に避けてくれるので学校が目視出来る距離まであっという間だった。
彼女はラストスパートと速度を上げる。高速道路を走ってた方が他の人の為にも良いなと思えるほどの速さでひやひやする。このスピードでクラッシュしたら骨の一つ二つでは済まない。俺もペダルをこぐ足を限界まで速める。ふとともが張り裂け肉片が辺りに飛び散りそうなくらい痛い。それでもこぐのを俺は止めない。
そうこうしているうちにここを曲がればあと学校までは一直線だ。
最後の曲がり角に差し掛かりインコースから一気に攻める。
脅威のカーブテクニックでさほど速度を落とすことなく綺麗に曲がりきれそうだ――――
「うぎゃぁぁぁぁ!!」
突然、謎の衝撃と共に視界に真っ青な空が広がった。
あぁ、今日は雲一つない晴天だ。まるで………………何だろう…………海……?
そんなことを瞬間的に思いながら一瞬で俺の体は民家のブロック塀に叩きつけられた。
そのまま絹ごし豆腐のようにブロック塀を軽々しく破壊し民家の壁に再度、叩きつけられた。
「ちょっと……、何が起こった……?」
俺は頭や足や腕や体の節々から燃えるような感覚を感じた。
もしかして内に秘められた隠されし闇のパワーが目覚めたのか!?遂に目覚めるときが来るとは……。
そんな中二病じみた変な思いをしながらふと濡れるような感触を感じるTシャツを手で拭う。
そしてその手を見てみるとジャムのような真っ赤な液体がべっとりと付着しているではないか。
焦って全身を見まわしてみるとそこにはあらゆる箇所から真っ赤な液体が流れTシャツやジーパンを真っ赤に染め上げていた。
そのことに気付くと同時に激痛が全身を駆け巡る。
気を失いそうになるほどの痛みは引くことを知らず痛み続けた。
だが俺は頭や腹部から出血しながらも何とか立ち上がろうとした。
あのクララだって最後には立ち上がっているのだ、立ち上がれないはずなど無い。
塀の端を手で握りながら立ち上がろうと試みる。だが手には一切力が入らず中腰まで行くとそこからは重力に負けないようにするのが精いっぱいだ。
前を見ると霧のように砂埃が辺りを覆いこみぶつかった相手の正体が何も見えない。
その間も滴る血が俺の服を更に真っ赤に染め上げていく。Tシャツの白と血の赤のコントラストは生々しくもあり美しくもある一種の芸術品と化していた。
何とかようやく起き上がると丁度辺りの砂埃も消え視界も良好になる。
そこで俺が見たのは車でもバイクでもなく一頭の虎だけであった。
動物園かテレビでしか見たことが無いような立派な虎がそこにはそびえ立っていて俺を見つめていた。
呆気にとられ立ち尽くす俺。
しかしすぐに小さなうっという声と共に口に手を当てる。
当てた手の隙間から真っ赤な液体が瓦礫にぽたぽたと落ちていく。
そしてそのまま俺は崩れ落ちるようにその場に倒れた。
「ねえ! 大丈夫!? ねえ!
誰か早く救急車を! 誰でも良いから早く!
しっかりして! もうすぐで救急車が来るから、それまで持ちこたえて」
ぼやけ始めた視界が捉えたのは彼女だった。
綺麗で吸い込まれそうな黒目に大粒の涙を浮かべながら彼女は呼びかける。
小刻みに震える手で俺の体を掴み揺らしにもかかった。
俺は最後の気力を振り絞り彼女に言う。
「虎に……、撥ねられた……」
そんな間抜けなセリフを最後に視界は完全に消え意識も深い闇に沈んでいった。