第四話 夏の夜の話
意識が水から浮かび上がるように、目が覚めた。誰かが自分の頭を撫でていって、それに驚いて起きてしまった時のような、手荒い目覚め。だから、眠気なんて言うものは吹き飛んでしまったように感じるけれど、それでも少し目の奥に燻っているそれを抑えて体を起こす。
何もない部屋だった。
十畳ほどの広さがある和室。夏の虫の声が響く閑散としたその部屋に唯一敷かれている、一組の布団の中に晟夢はいた。日はとうの昔に沈んでしまったらしい。開かれた障子から入り込んでいる僅かに欠けた十六夜の月の光が照らし出すその部屋は、他に光源がないせいで酷く暗い。だからと言って何も見えないような暗さでもなく、物の形がうっすらとは判る程度の明るさは与えられていた。
その様子を見て、月の光というのは意外に明るいのだな、と晟夢は思う。知らなかった、とも。月の光だけが当たる夜なんて──経験した事が無いと言えば嘘になってしまうけれど、それを覚えているかと聞かれたらそれは否である。だから正確に言えば“忘れていた”という事になるのだろうが、それは知らないとどれだけの違いがあるのだろうか。
知ら無いから無知だ。忘れ去った卩が忘却だ。
その二つの、何が違うのか。
一度知ったかどうか程度の相違はあるのだろう。しかし、知らないのも忘れたのも、結局はそう、興味がないからなのだ。興味がないからこそ知ろうともしないし、興味がないからこそ覚えようともしない。これは晟夢にとってはどうでもいい事だったのだから、知らなくてもどうだっていい事なのだ。
でも少し、もったいないかな、と思う。
こんなにも優しくて、穏やかな光を忘れていたというのは損かもしれないな、と。
価値観が変わったのかもしれない。ただ、何かに気を取られて意識の端に追いやっていて、いつの間にか零れ落ちていたのかもしれない。
そうやって人は変わっていくのだ、と誰かが言っていた気がする。だったらこれは、逆戻りをしているだけなのだろうか。零れ落ちたものを拾うのは、後戻りをしている事になるのだろうか。
──別にそんな事を本気で思うわけじゃないけれど。
空色が闇にくすんで、まるで夜空のような色合いになった、森で出会った彼女がこちらを見ている様を認めて、もう元いた場所には戻れないのかな、と何ともなしにそんな事を思った。
◇ ◇ ◇
「やっと、起きたんだ?」
小傘は、布団の上でまだ眠そうにこちらを見ている少年に、そう声をかけた。縁側には、足を外に放り出すように座っていたので、もちろん後ろを向いてである。でも体ごと向き合うのは面倒だから片手を床について、体を半分ほどひねっている。
「えっと……おはよう?」
首を傾げる少年。確かに夜におはようと言うのは違和感があるが、少年は、どちらかと言うと何を話したらいいのかが判らなくて困っている風だった。
──いや、“何から”、かな?
小傘は、少年が眠っている間の事を思い出す。
少年が眠っていたのは二日。その間、小傘の知り合い──というより、今いる建物の持ち主──がこの少年の事を調べていたのだ。その調査で発覚したのは、あの日、人里で行方不明になった者は一人もいなくて、幻想郷の誰もこの少年の事を知らないという事だけ。
しかし情報的にはそれだけで十分で、そしてそこから推し測れる事実は、一つしかなかったのだが──
でも、と小傘は床に手をついていない方の手を見て反駁する。その手に握られているのは、盃。もちろんそれに注がれているのは酒で、小傘は今まさに晩酌をしていたところなのだ。
故に。
「今、話す必要はないかな……」
そう判断した。
面倒なのもあったが、なんとなく無粋に感じたからだ。月に照らされ、酒にも酔っているというのに、どうしてそんな役目を果たさねばならないのか。説明も、確認だってしてやるつもりはない。
少年が本当に小傘の予想通りの存在なのだとしたら、悪い気はしないでもないけれど。
「飲もうか?」
小傘はそんな心中を全く感じさせずに盃を少年に突き出した。それに少年は少し驚いたような表情をする。
「それって酒だよな……?」
差し出されたそれと小傘の側に置かれた一升瓶を見て、少年が発したのはそんな言葉だった。
「お酒以外になにがあるってのさ。月見しながら水飲んだって、美味しくなんかないでしょ?」
そしてその、幻想郷の住人らしからぬ言動に小傘は笑って応える。一瞬だけ、盃の中の酒に大きな波紋が生まれたけれど、小さな海の中、すぐに消えてしまう。まるで何もなかったかのように。
「……それもそうか」
それに気付かなかった少年は、僅かな沈黙の後そう言い、布団から出て小傘に近付いてくる。立ち上がる時に少しふらついていたようだが、これは二日も寝ていた反動だろう。
「折角起きたんだし、飲むことにするよ」
「そう来なくちゃ」
小傘の横に座った少年に小傘は盃を渡した。しかし、少年はそれをすぐに口にはせず、盃をじっと見つめて唸っている。かと思えば、今度は警戒するように匂いを嗅ぎ始めた。
「何してるの?」
それを不審に思った小傘は、そう尋ねた。初めて見た物に警戒する犬みたいだとも思ったが、それは言わない。
「いや、何というか、酒だなーって思ってさ」
何故か感慨深げにそう述べる少年。
「そりゃそうだよ。さっきも言ったでしょ?」
「ああ、そうだな」
「そうだよな」と、少年は続けて言うと、盃を一気に傾けた。勢い余って零れた酒の雫が少年の服を濡らすが、それを全く気にする様子も見せず、少年は一気に酒を飲み下した。故に、元々大した量も入っていなかった盃の中身は、すぐに空になってしまう。
「そう言えば、自己紹介がまだだったよな」
飲み終えた後、濡れた口元を腕で拭って、少年は言う。
「俺の名前は川原晟夢だ。よろしくな」
浮かべる微笑は楽しげで、でも少しだけ寂しげで。
「私は多々良小傘、こちらこそよろしく」
本当に嫌な奴だと思ってしまった。
◇ ◇ ◇
結局、晟夢は何も聞いてこなかった。だから小傘も何も言わなかったけれど。
本当は、聞いて欲しかったのかもしれない。すぐにでも頼って欲しかったのかもしれない。
なんて、そんな今更な事を思っている。
それに関してはもう遅いし、まだ遅くはない。
だから小傘は、横で酔いつぶれて眠ってしまった少年に、起きたらちゃんと説明をしてやろうかなと思う。ここは幻想郷という“世界”で、少年はそこに迷い込んだ外来人なのだという事を。
まだ、この少年自身の事は分からない。見ただけで感じる拒絶もそのままだ。当然、力になってやりたいという思いも。
元の世界に帰ってしまう事で、すぐにでもこの少年がいなくなってしまう可能性がないとは言い切れないけれど、小傘はなんとなくそれはないかな、と思う。
それは何の確証もない、ただの勘でしかない。しかし、間違っているとも思えなかった。
だからと言って何が分かるというわけでもないけれど。
「どうかしてる」
そうは思っていた。
わけが分からない。自分は何がしたいのか、何を求めているのか。
「私は──」
何を認めたくないのか。