第二話 出会い
眩しさに目を覚ますと、森の中だった。晟夢はその湿り気を帯びた地面に仰向けで寝転がっていて、目を覚ます原因となった木漏れ日に目を細める。木漏れ日を下から眺めるというのは確かに綺麗な光景ではあるが、起きたばかりの目には眩しくて仕方がないのだ。
それに、何か夢を見ていた気がするけれど、よく覚えていない。
でも、目覚めは悪くない。ならばその夢は良い夢だったのだろう。きっとこんな事すらすぐに忘れてしまうのだろうけれど、夢なんてそんなものだ。
そう思って、晟夢はゆっくりと体を起こし、服についた泥を払う。
着ている服は変わっていなくて、私服のままだった。これは起きてから熱を測ったのが服を着替えた後で、もう一度寝巻に着替えるのが面倒だったというだけの話である。
そしてあれほど苦痛に感じていた熱は嘘のように引いていて、体は思い通りに動いてくれる。それは、非常にありがたい事だった。ありがたい事なのだが、それでも晟夢は思う。
こんな事なら、家で熱を出して寝ている方がマシだったと。
見渡す限りの木。右を見ても、左を見ても、前を見ても後ろを見ても森は悠然と広がっている。進むべき方向を指し示してくれるものなど一つもなく、ただただ先の見えない迷路が広がっているのみ。
こんな状況に何の前触れもなく放り込まれて、ただの一高校生である晟夢に何ができるというのか。
何をすれば最善で、何をどうすれば最悪なのか、どうやって判断しろというのか。
できるわけがない、そんな事。
しかし、現実は残酷だ。
何をすればいいのかも判らないのに、何かをしなければ生き残れない。
つまり、死にたいのならば何もしなければいいのだが、晟夢は残念ながら生きたい側の人間だ。
だからこそ、残酷。
死にたくないのに、死ぬ気で何かをしなければならない。死にたかったら、何もしなくていい。それに晟夢は皮肉ったような笑みを浮かべて歩き出した。
もしかしたら今までの事は晟夢の考え過ぎで、すぐにでも森を出られるのかも知れないし、逆に森の奥地へと入り込んでいってしまっているのかも知れない。結局の所、どこへ向かっているのかは判らないのだが──それでも何処かに辿り着く。
そのために、歩く。
まだそんな、馬鹿みたいな事を考えていられるくらいには、この時の晟夢には余裕があった。いきなりどこかに放り出されるなんてありえない事を前に感覚がマヒしていたのかもしれないし、そもそもこれが現実だという事自体、心のどこかで認めていなかっただけの話なのかもしれない。どちらにしろ、何か行動を起こす事ができたという事実は変わらないのだが、それが長く続くとは限らない。
幸い、森の中は思ったよりも明るく、足の踏み場もあった。夏なので多少暑いのは仕方ないが、日光は樹木が防いでくれるし、風もちょうど良いくらいに吹いているので、暑すぎるという事はない。しかし、当然蝉はうるさいし、蚊は鬱陶しい。加えて、下は長ズボンなので森を歩く分には問題はないのだが、上は白のシャツに灰色を基調にしたシャツを羽織っているので、そこいらの枝に引っかからないように歩くのは意外と骨が折れるのだ。
だから少し休憩しつつ、これではまるで田舎の林を歩いているみたいだと、晟夢は思った。
別にそれで何があるというわけでもないけれど、見知ったものがあるというのは少し安心する。
まだ、自分はこの世界にいるのかと、確かめる事が出来るから。
気を失う前に感じた感覚はやけにはっきりとしたものだったが、今はもう何も感じないし、ここはちゃんと自分の知っている世界だ。
だったら、あの感覚に何の意味があったのかと考えたところで、判らないというのが正直な話である。
ただ、今のこの状況には関係があると言えるだろう。それがどう関係しているかと問われれば、また判らないという事になるのだけれど。
今いる所も判らないし、どうしてこんな事になったのかも判らない。唯一の手掛かりは、何が何だかよく判らない感覚で、なのにその感覚が表すような事態にはなっていない。
判らない事だらけだな、と晟夢は思う。
ああでも、もしかしたらここが地球に似ているだけなのかもしれないな、とか冗談でそんな事を考えて、気付く。
でも、そうだとしたら、今の状況は説明がつくのではないか。ついてしまうのではないかと。
あの感覚通りに、自分が元居た世界から放り出されて、地球に似たどこかに飛んでしまったのなら──
ここは──“どこ”だ?
その問いに答えを与える代わりに、晟夢は再び足を踏み出した。
それはまるで、何かに急かされるように。
◆ ◆ ◆
もう、この世界にはいられない。
これは、世界に否定されてしまったのと同義だと言っていいだろう。
さっきまでは、蝉や蚊のおかげで気のせいだと思う事ができた。でも、もしここが異世界で、よく見れば蝉も蚊も地球に生息しているものと違ったならば?
──下らない。
確証も何も得られないのに、非現実的な事を考えても仕方ない。どこかの誰かに拉致されて森の中で放り出された、とか言う方がまだいくらか説得力がある、と。
そう思えることができたのなら、どんなに楽だったか。今思い返せば、あの感覚は、“感じた”なんてものではなかった。強いて言うのならば、“判った”という言葉が最も適切だろう。
そして晟夢は、今いる世界が異世界ではないかと思ってしまった。今自分が“どこ”に立っているかの確信が持てなくなってしまった。
生物なんて住んでいる環境に適応してその姿と生き方を変えるのだから、地球に似た世界なら同じような生き物がいても不思議じゃない……なんて、思ってしまった。
最悪だった。
しかし、それでも歩みは止めない。ここが異世界だろうが何だろうが、状況は一緒なのだ。何かしなければ生き残れないし、何もしなければ──死ぬ。つい先程まで冗談みたいに思っていた事が冗談ではなくなった状況に置かれながらも、それだけは嫌だと思う。何もしないままに死ぬのは、死んでも御免だと。
しかし、ここが本当に異世界で、更に人間が存在しないのなら、晟夢は一人で生きて行かなければいけない。
一人は嫌だ、寂しいから。でも、同じくらいに死ぬのだって嫌なのだ。
──怖い。
今、晟夢は間違いなく、そう感じていた。これからどんな行動を取っても自身の望まない方向にしか進まない気がして、数多ある選択肢の向こう側には、自分の欲する結果など一つもない気がして。
知らぬ間に小走りになって、息があがって、頭が少しずつ回らなくなって。既に、自分が異世界にいる事が前提になっている事にも気付かずに。
たった一人で、恐怖を感じていた。
「きゃぁぁ!?」
だからその時、そんな悲鳴とともに、本当に唐突に、晟夢に向かって彼女が落ちてきたのはただの偶然でしかなかったのだろう。
しかし恐怖を感じても、それでも必死に何かをしようとしていた晟夢には、いや晟夢だからこそ、この出会いは必然だったのかもしれない。
細やかな木漏れ日の差す木々の間に現れた、空に溶け込んでしまうかの様な水色の華奢な少女。
晟夢はとっさに彼女を受け止めようとして、支えきれずに転倒する。したたかに背中を地面にぶつけ、痛みとともに目を開けた先にいたのは、驚くほどに可愛らしい美少女で。
「おい、だ……いじょうぶ、か?」
そんな風に掛けた自分の言葉が、どこか遠くに聞こえてしまっていた。