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忘れもの  作者:
第一章 灰と空
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第九話

 落とされた。


 とっさにそう思ったけれど、晟夢が実際に覚えたのは、不安定な足場に押し上げられているかのような浮遊感だった。砂場のような足場にうまく立っていられなくてバランスを取ろうとするけれど、全く取る事ができない。なのにそれで転んでしまうような事もなく、今にも転んでしまいそうな体の軸の揺れだけを感じている。目は開いているはずだが、そこには視覚の情報そのものがないのか、自分が今いる場所の明暗すらも判らなかった。ならば聴覚はと言うと、まるでトンネルを自動車で通り抜けている時のような耳鳴りだけが聞こえてきて、自分がそこに立っているかの感覚すらも曖昧になっていく。

 何が起こっているのかは判らない。ただ、何かに揺られている。身を任せているのではなく、任せさせられている。周りを確認する事も、まともに動く事もできず、暗闇の中で、一人立ちつくして。

 そうして、どれほどの時間がたったのだろうか。

 体の感覚が、唐突に戻ってくる。

 まずは光。目の前の暗闇が浄化されるように、晟夢の視界が白く染まっていく。そうして、今度は割れるような耳鳴りが、そよ風のように穏やかなものへと。足場も少しずつ安定していき、しかし、何故か不安だけが強まっていく。

 光に照らされて、穏やかな風にも包まれて。自分がそこにいてはいけないような思いに駆られる。しかし、そんな思いに関係なく晟夢の体は〝そちら側〟へ向かって進んでいく。

 まずい、と。今までの不安の色とは違った焦りの色を晟夢は浮かべる。しかし、そもそもここがどこで、どうなっているのかすら判っていない晟夢に、その力に抗うなんて事はできない。

 多少は動けるようになった腕を振り回しても、少しは安定してきた足場で足を踏ん張っても、状況を好転はおろか、悪化させる事すらできない。晟夢はそんな自分に、今度は笑みを浮かべる。こんな事ばっかりだと、諦めたような乾いた笑みを。

 そうやって、視界に広がっていく光に目を細めていた晟夢の耳を、誰かの声が叩いた。

「自分の目で、見てきなさい──」

 先程の八雲紫という女性の声だった。晟夢が元の世界に帰る事ができないと、その事実を突きつけた女性。どこから話しているのかも判らない。けれど、その声はまるで耳元で話しているかのようにはっきりと晟夢の耳に届いた。

「──現実を」


 ◆ ◆ ◆


 開けた視界の中で、まず目に入ったのは見慣れたテーブルだった。所々傷が入っていたりして年季を感じさせるもので、母親がもう二十年近く使っていると懐かしそうに語っていた記憶がある。次に周り見渡すと、最近ようやっと薄型に買い換えたテレビに、もう使えなくなってしまったビデオデッキが静かに鎮座していた。そこからさらに視線を巡らせると、近所の神社で行われた夏祭りで釣り上げた金魚が泳いでいる水槽、母親のパートの勤務表が可愛らしいマスコットのマグネットで貼りつけられている冷蔵庫、その他にも自分の日常を感じさせるものが次々に目に映った。

「俺の、家……」

 先程までの感覚が尾を引いているせいか、少し掠れた声で自分の今いる場所を口に出す。

「でも、俺は……」

 帰れないんじゃなかったか。その言葉を飲み込んで、晟夢はもう一度周りを見渡す。どこもかしこも比喩でも何でもなく毎日見ていたもので、ほんの少しの間離れていただけなのに、それら全てが懐かしく感じられた。慣れた動きで、目の前のテーブルに手を付いて今の状況について考えを巡らせる。

 ここは、確かに自分の家だ。雰囲気にしても、しみついた匂いにしても、どこの誰にも再現はできないだろう。ならばどうして、自分はここにいるのか。その理由としては、やはり八雲紫という女性が晟夢をこちらに送り込んだから、としか思えない。彼女が晟夢に何をしたのかは判らないが、こちら側にくる途中で話しかけ、指示を出してきたのは彼女なのだから、きっとそうなのだろう。

 現実を自分の目で見てこいと、彼女はそう言った。晟夢が先程までいた世界が幻想郷というのなら、今いる世界こそが現実だと──単純に考えれば、そういった意味にはなるが。はたしてそれは正しいのだろうかと、晟夢は今一度見慣れたリビングを見渡す。

「──ん?」

 そこで、晟夢はふと疑問に思った

 どうして、テーブルを囲む椅子が三つしかないのだろうと。ここは両親と兄、そして晟夢の四人家族が住まう家なのに。けれどまぁ、誰かが手の届かない所にある物を取ろうとして持って行ったのだろうと、晟夢はそこから目を逸らす。

 そうして、その目を逸らした先でまた疑問に思う。

 どうして、晟夢の部活の予定表が母親の勤務表の横にないのだろうと。いつもそこに貼ってあるはずなのに。

 どうせ貼り忘れたのだろうとまた目を逸らして、水槽の金魚の数が五匹から三匹に減っている事に気付く。この金魚を飼い始めたのは去年で、家族で祭りに行った時に、兄と自分がどちらが多くすくえるかを競った時に貰ったものだ。その時は、自分が二匹すくった後に兄が三匹すくって、その後散々馬鹿にされたからよく覚えている。

 自分のいない間に死んでしまったのだろうかと、目を逸らす。

 そしてその先で、また疑問。自分を納得させ、また目を逸らす。そうしてまた、その先で疑問にぶつかる。また目を逸らして、疑問にぶつかって、目を逸らして──。

 気付けば気付くほど、目を逸らそうとすればするほど、その事実に近付いていく事が判る。この空間に何が足りなくて、それが一体どういうモノで、それが一体何を表しているのか。

 現実という、その言葉の意味が嫌というほど判ってしまう。晟夢自身が幻想になってしまったという彼女の言葉が、重く晟夢にのしかかり、視線がもう何も見たくないかというように、足元へとむかう。

「やべ、寝過ぎた!」

 そこに、リビングの扉が開く音ともに聞き慣れた声がリビングの中に響く。はっとして顔を上げると、思った通りの相手が、寝巻き姿のまま焦った様子でこちらに駆けてくる。いつもの晟夢なら、寝ぐせの残った兄の頭を見て、苦笑とともに見送っただろう。けれど、弱り切った今の晟夢にはその情けない兄弟の姿すら、救いのように見えてしまっていて、気付けば縋るかのように手を伸ばしていた。

「兄──」

 いつものように、何だ、いま忙しいから後にしてくれ、と。そう言ってもらえるのなら。そうやって救いを求めた手は、やがてその相手に届いて──

「……あ」

 すり抜けた。

 兄の目に留まる事はおろか、動きを止める事すら叶わず、兄は自分の体を通り抜けてキッチンへと向かう。その後ろ姿を目で追いながら、晟夢は何もつかめなかった自分の手を見る。

「……はは」

 その口から漏れたのは、乾いた笑い声。

「やっぱり俺は……ダメなのか」

 諦めの声が、次いで。

「くっそ、もう一時半じゃねぇか! 洗濯物なんて干してる時間ないぞ!」

 兄の声が聞こえて、時間を何となく確認してみたけれど、特に意味はなかった。力のない足取りで、玄関へと向かう。

「俺に兄弟でもいれば押し付けて行くのに!」

 ──誰かの、声が聞こえた。


 ◆ ◆ ◆


 鍵は何の問題もなく開いた。玄関から外に出て、いつもの癖で鍵を閉めようとする。すると、いつもポケットにつっこんでいる鍵がない事に晟夢は気付いた。色々あったせいでどこにあるのか見当もつかない。どうしようか、とほんの少しだけ迷って、晟夢はそっとノブに手を掛けた。けれど、何の金属でできているかも知らないそれは、金属特有の冷たい感触を晟夢の掌に伝わせるだけで、晟夢の腕の力に従ってくれなかった。鍵が、閉まっていたのだ。閉めてもいないのに。

 それに、晟夢は目を見張って、脱力し、そして諦めたような乾いた笑みを浮かべた。

「もう、この世界にはいられない……か」

 何もせずに閉まった扉を見つめながら、かつて感じた想いをそっと口にする。そうして、少しだけ、この言葉の意味を理解する。

 自分という存在がいた証が、この世界には何も残っていなかった。そして、それを残す事すら許さないとでも言うかのように、この世界は晟夢の行動の跡を抹消していく。

 ああ、どういう原理なんだろうなと、意味もなく考える。けれど、やっぱりそんな事は判るはずもないから、すぐに考えるのをやめる。

 ──心に、穴が開いていた。

 ぽっかりと、あるはずのものがなくなってしまったかのような不自然な穴。

 判っていたはずだった。諦めたはずだった。

 だというのに、〝現実〟を見ただけで、こんなにも。

「判ったかしら? ここに貴方の居場所がないという事が」

 ふと、後方からかけられた言葉。それを聞いて、晟夢は、ああ、と心の中で納得したように呟いた。自分の痕跡がなくて、それを残す事も許されない。確かに、それは──この世界に自分の居場所がないという事なのだろう。

「……ああ。よく、判ったよ」

 だから、後ろにいる誰かにそう短い肯定の返事をする。振り返らなくても、声で誰かは判った。少し前まで話していた、晟夢をこの世界に戻した女性だ。その少し前が、今の晟夢にとっては昔のように感じられるのだが。

「でも、どうしてこんな事を?」

 そんな質問が口をついて出た。

「どうして、とは?」

 その質問に、彼女は──八雲紫はとぼけたような声を返した。脳裏に、彼女の作り物めいた笑顔が浮かぶ。

「……俺は諦めてただろ」

「そうですわね」

「じゃあ、どうしてこうする必要があったんだ?」

 晟夢の口調に責めるようなものが混じる。これが嫌がらせではないだろうという事は判ってはいるけれど、後ろで八雲紫があの笑顔を浮かべている様を想像すると、どうしても言葉から棘を抜く事ができない。

「諦めさせるためですわ」

「だから──俺は諦めてただろうが! 言葉で言えばそれで俺は納得したのに、それなのに、こんな……こんな現実を見せる意味はあったのかって聞いてるんだ!」

 ついには言葉を荒げて、乱暴に振り返る。けれど、その先にあったのは晟夢の頭の中で想像していたようなものではなく、感情を殺したかのような顔をした、一人の女性の姿だった。

「……判らない?」

「──っ」

 そうして聞こえた、感情を殺した平坦な声に、晟夢は息を詰まらせる。言いようのないその圧力に負けて、少しだけ晟夢は頭が冷えた気がした。実際に、どこかおかしかった思考の一部が正常に戻って、晟夢は自分のやっている事を自覚する。

 勝手に相手が自分を笑っていると勘違いして、声を荒げて、気に入らないと喚き散らしている。

 これでは、ただの八つ当たりだ。

 その自分の無様さを痛感して、今度こそ晟夢の頭は一気に冷えていった。激しい感情を向けていたはずの相手に顔を合わせる事ができなくなって、晟夢は視線を足元に落とす。

「……」

 少しの沈黙。

 夏の強い日差しに照らされた地面は正直見ていて目が痛いけれど、それ以上に目の前の相手を直視する方がはるかに難しかった。

「……すまない。少し気が動転してた」

 ぽつりと、晟夢の口から謝罪の言葉がこぼれた。

「…………」

 もう一度、沈黙が下りる。先程よりも長い空白の時間。下を向いている晟夢には目の前の彼女がどんな顔をしているのか判らないけれど、中々返事が返ってこないこの状況に、晟夢は気まずさが焦りに変わっていくのを感じていた。

 白蓮に叱られていた時とはまた違う焦り。白蓮の場合は、こちらが何も言わなくとも話を勧めてくれていて、返事がほしい時にはちゃんと促してくれていた。今思えば、彼女は説教上手だったのだろう。けれど今は、場を沈黙だけが支配していて、こちらから話しかけていいのかも向こうが話すのを待てばいいのかすらも判らない。

 そもそも、八雲紫が怒っているのかすらも定かではないのだ。身勝手な言葉に呆れられているのかもしれないし、下手をすれば何も思われていないのかもしれない。だから、いっその事怒鳴ってくれた方が気が楽だと、そう思うが彼女は何も語ってくれない。

「…………」

 沈黙が重い。じっとりと、暑さとは別の理由で吹き出す汗が気持ち悪い。

 何をすればいいのだろう。どうすれば、この沈黙から解放されるのだろう。そうやって逃げるように考えるけれど、頭が真っ白になって何も案が浮かんでこない。代わりに浮かんだのは、後悔。

 諦めたと、そう思っていた。けれど、八雲紫に現実を見せつけられて打ちひしがれた。だから、きっと自分は心のどこかで、現実(そとのせかい)に帰るという事を諦められていなかったのだろう。

 ──中途半端に諦めるから

 だから、こうなった。

 自分がしっかり諦め切れていれば、それでよかったのに。そうすれば、こうやって心の傷を負って、誰かに八つ当たりをする事もなかったのだ。そもそも、自分には世界をどうこうする事はできないと何度も思っていたはずなのに、どうして諦め切れなかったのか。

 自分にできないと判っている事を期待して、それで何もできなくて傷付くなんて、馬鹿にもほどがある。

 そんな事、今までだって何度も経験してきたはずなのに。自分に期待などしてはいけないと、その度に思い知らされてきたはずなのに。

 自分の中で大きくなっていく自己嫌悪の感情に呼応するように、手を強く握り込む。爪が手のひらに食い込んで痛い。無理に力をかけているせいで、指の関節がぎしぎしと悲鳴を上げている。このままでは爪が手のひらを食い破ってしまうだろう。それなりの痛みだって、現に感じている。けれど晟夢は、そんな事は知らないとばかりに力を込めていった。

「その辺りで、やめておきなさいな」

 ふ、と。その言葉とともに晟夢の手に誰かの手が添えられる。そうして、今にも折れてしまいそうなほど細くて白い指が、そのまま晟夢の手を優しく包み込んだ。

「──ぇ」

 少しだけ驚いて、晟夢は今まで動かせなかった顔を上げる。こんな事を今の晟夢にできるのは一人しかいない。それは言うまでもなく、目の前の彼女。八雲紫だけ。けれど、晟夢は彼女がこういった行動を起こすとは思っていなかったし、まして自分を心配するような表情を見せるなんてあり得ないと思っていた。

 だって、彼女に心配してもらえるような事なんて何一つしていない。

「……どうして」

 だから、驚きというよりは困惑がこもった声が晟夢の口からこぼれた。その言葉とともに、彼女の指に包まれた晟夢の手のひらから力が抜けていく。

「どうして、って。そりゃあ、貴方が自分で自分を傷付けるような真似をしているからそれを止めただけよ」

 言いながら、少しだけ、それでも今までよりもはるかに自然な笑みを八雲紫は浮かべる。満面のそれでもなく、楽しそうなそれでもなく。むしろどこか困ったかのようなそれは、肩から力が抜けたように穏やかな笑みだった。

「ごめんなさいね」

 そうして、次に彼女の口から出たのは謝罪の言葉。

「でも、これは決めている事だから」

 少しだけ、言いにくそうに彼女は続ける。

「幻想になるという事を、貴方が本当に理解できるように」

「……それは」

 どういうことなのか。そもそも聞いていいものなのか。口にしたいことが多すぎて逆に言葉にできない。

「今日は、ここまでにしましょう?」

 そうやって晟夢が口を開けないでいると、八雲紫が少しだけ困ったようにそう言った。

 晟夢は彼女の顔を見ないようにしながら、小さく頷く。それを見て、八雲紫が何かを行ったのを感じた。きっと、晟夢がここに送られてきた時と同じようなものだろう。今度は警戒も対処もしない。

 用意してくれた逃げ道に自分だけ都合よく入っていったみたいで、後ろめたい気分ではあった。けれど、今の自分ではきっとどうしようもない。彼女に対して、何の言葉も浮かばない。

 だから、今日はここまでなのだ。

 そう思いながら、晟夢は今一度幻想へと落ちていく自分を、夢をみるような曖昧な意識感じていた。

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