第八話 諦念
「それなら、駄目よ。その子は帰る事ができないから」
当たり前のように女性の口から告げられたのは、晟夢を外に帰す事はできないという拒絶の言葉だった。
「……そう」
霊夢はそれを聞くと、静かに、未だ空を見つめる晟夢に向き直る。
「悪いけど、そういう事だから」
帰れ、と──字面だけ見ればそう続くような言葉だったけれど、帰る場所もない人間を突き放すような、そんな声音ではなかった。だから、彼女のその科白の後には、きっと違う言葉が続くのだろうと知る。
でも、それよりも。
「……どうしてだとかは、教えてくれるんですよね?」
はっきりさせるべき事があった。
「勿論ですわ」
とろけるような、酷く作り物めいた笑みを浮かべた彼女の返答に間はなく、そして晟夢の目の前に音もなく現れるのにも──間はなかった。
「……っ」
目を離したつもりはない。降りてきた音を聞き逃すはずもない。なにせ、あんな高所にいたのだ。なのに彼女が空で身を後ろに倒した途端、その少しの動きすら見逃さなかったのに、気付けば彼女は晟夢の目の前にいた。
「でもその前に……自己紹介、しておきましょうか?」
──遊ばれている。
心の中まで覗き込まれるような視線の中、何ともなしにそう感じた。
「八雲、紫……」
まるで機械のように、自らの意思とは関係なく彼女の唇から発せられた音の通りに口が動く。
「覚えてもらえたかしら、川原晟夢君?」
「っ……ああ、よろしく」
一瞬奪われた自分の体の主導権を何とか取り戻して、落ち着くために内心で一息つく。そうやって今の状態を確認して、晟夢は本題に入った。
「で、どうしてアンタは俺をここから帰してくれないんだ?」
しかし八雲紫は、その言葉に眉を寄せた。
「勘違いしているようだから、正しておくけれど……」
一歩、晟夢から離れた彼女は晟夢の前に手を差し出して、指を二本立てる。中指と、人差し指。その内の、短い方の指を彼女はもう一つの手で包み込むように折りたたんだ。
「帰さないと──」
続いて、もう一本。
「──帰れない」
右と左の人差し指を立てて、つないでいた両手を二つに分離させる。
「この二つの意味合いは、全然違いますわ」
「俺を帰さないという事と、俺が帰れないのは違うと?」
「そうですわ」
それくらいは、晟夢にも判る。八雲紫だってそれは承知の上だろう。だから今、彼女が言いたいのはそういう事じゃない。
「晟夢は」
彼女が言いたいのは。
「晟夢は、どっちなの?」
晟夢が今、自分がどっちに立っているかを、それを晟夢自身がどう認識しているかという事なのだ。
「あら、唐傘の。あなたはこの件に興味はないものだと思っていたのだけれど」
唐突に口を挟んだ小傘に対して、八雲紫が少し驚いたように言う。
「別に、そういうわけじゃないけど……」
「そう? でも、貴方は人間の事をかなり嫌ってはいなかったかしら?」
「……それは、そうだったけど」
僅かな沈黙の後、小傘は紫の傘から伸びた長い舌を見つめながら言う。
「今は大分マシだよ。白蓮だって昔は人間で、そこの霊夢だって人間なわけだけど、嫌いってわけでもないし。もちろん、そこにいる晟夢の事だって嫌いとか、そういう事はないよ」
八雲紫はそんな彼女を見て、どう思ったのかは判らないが、
「ふぅん」
と、興味深げに息を吐き、そのまま目を細めて、厳しいとさえ言える視線を一瞬だけ小傘に向ける。しかし、それを晟夢が疑問に思った次の瞬間には彼女の顔は何もなかったように、ついさっきまで浮かべていた完成された笑顔に戻っていた。そういて、そのままの笑顔で、さっきまでの声色で、八雲紫は手を叩いた。
「それじゃあ、その問いに答える前に、一度聞いてみましょうか。多々良小傘──貴方はどう思っているのかしら?」
どうとは、もちろん晟夢の立ち位置について。
「判らないから聞いたんだけど……そうだね」
その問いに、小傘は困ったようにそう言って、一拍。
「貴方がいつもやってる意地悪っていうのはどう? 実は帰れてしまうとか」
「残念だけど、それはないと思うわ」
冗談めかして答えた小傘の言葉を否定したのは、八雲紫ではなく、意外にも霊夢だった。
「そうなの?」
「コイツが嘘を言うのは、人をからかう時だけなのよ」
言い換えると、こういった場で彼女が嘘を吐く事はないという事だ。
「へぇ、意外。本当の事なんて教えてくれないのかと思ってた」
「教えてはくれるわよ? なかなか話さないだけで」
「結構好き勝手言ってくれるわね、貴女達」
頬を歪ませながら八雲紫が霊夢と小傘に苦言を呈する中、晟夢は一人、頭を働かせていた。いや、実を言えば、結論自体は既に出ている。
〝帰してくれない〟と言って〝勘違い〟と言われた。その後に与えられた選択肢は二択で、それは〝帰さない〟と〝帰れない〟。そこから答えを導くのは、少し頭を働かせれば、難しい事でもなんでもない。
じゃあ何に頭を働かせていたのか。
当然の事だが、晟夢自身、この結論を信じたいわけではない。だから、頭をフルに回転させてまで探していたのは、出てしまった結論に対する否定の材料、という事になるのだが。
けれど、晟夢にそれを見つける事はできない。この世界の何を知っているわけでもない晟夢には、その糸口ですら見つける事はできなかった。
そもそも、八雲紫自身に謎かけをする気があったかどうかですら怪しいのだ。話の流れでそう見えるだけで、本当はすぐにでも答えを与えるつもりで──つまりそこには否定の余地はないという事で。
「──くそ」
思わず、悪態が口から漏れてしまう。それは、何も見つけられない自分に対してだったのか、それともこの現状に対してのものだったのか。もしくはそのどちらも、か。
それは定かではないが、無意識に漏れたその声は、周りにいたモノに何かしらの反応を起こさせるには十分なものだったらしい。
「あら、どうしたのかしら?」
晟夢が顔を上げると、八雲紫がそう言ってこちらを見ていた。唇をゆがめて、微笑みながらこちらを見ている彼女は、まるで──
──無駄だったでしょう?
そう、告げるようだった。
「なぁ、どうしてなんだ?」
だから、問い返してしまった。
「俺の何が悪くて、帰る事ができないんだ?」
自分が帰る事ができない存在である事を決定した上での、質問を口にしてしまった。もっと違う質問もできただろう。最悪、場違いに騒ぎ立てる事もできたのかもしれない。そうやって、足掻いて何か自分の求めるものに少しでも近付く余地が、まだ晟夢にはあったはずだった。
けれど、晟夢はそれをしなかった。
その答えを受け入れてしまったから。そして、諦めてしまったから。
「……まぁ、いいわ」
その晟夢の言葉に対して、八雲紫は少し間を開けてそう返した。
「川原晟夢。貴方が何故この幻想郷にきてしまったか、判っている?」
「そりゃ、〝幻と実体の境界〟とかいう結界の綻びで間違ってこっちにきてしまったんじゃ……」
何度も話したはずの事。それを受けて、晟夢は困惑したように今まで聞いてきた通りの言葉を返した。
「違うわ」
けれど、八雲紫はそれを強く否定した。
「貴方がこの世界にきたのは、確かに〝幻と実体の境界〟を抜けてきたから。けれど、その理由は結界の綻びなどではないわ。だってそれじゃあ、貴方を外に帰してしまえるもの」
先程までとは打って変わって、淡々と、事務処理を済ましていくように話す彼女は、流れるような動きで、人差し指と中指を立てて、晟夢に向ける。それと同時に、晟夢の周りの空気が急速に変わっていく。それは、重く、冷たく、まるで鋼鉄の部屋の中に閉じ込められてしまったかのような空気だった。そしてそれが、何か、得体の知れない何かに這いよられているように、ひたひたと重みを増していく。
「じゃあ、何故か? さっきも言ったけれど、それは難しい事でも何でもない」
その、ぞっとして、冷や汗すらも引いてしまう空気の中でも、八雲紫の言葉だけはしっかり耳に入る。入ってしまう。
「それはね、川原晟夢。貴方は、いや、貴方自身が」
彼女の一挙一動でも見逃せば、その何かに飲み込まれてしまいそうに感じて、まるで、魅入られるかのように晟夢は八雲紫を見つめる。
「──幻想になってしまっただけ」
けれど、そんな事に意味はなく。ただ、淡白な口調で事実を告げた八雲紫は、晟夢がその事実を受け入れる前に
「ただ、それだけの事なのよ」
何かを分けるように、その指を切った。
此処まで改訂終了。
残りは鋭意改訂中……。