campus life 9
不安定に次から次へ、鮮やかなものから深い闇へと変わる感情は、それでも凪いでいる海のようで静かに穏やかだ。
悩んで苦しむことを止め、諦めることを知り、現実を後悔しても、もう、もとには戻れないとわかっている。
時間がすべてを解決し、いつかこんなことがあったと笑って思い出せるように。
ただ、毎日が早く過ぎていくことを願っている。
一度裂け目のついてしまったものを、なんとか修復したとして、決して完全じゃないそこは、簡単に傷を深くする。
そして、思いがけず、再び割れてしまう。
二度目の傷はもっと深く、修復の手間を考えるなら、新しいものへと気持ちが揺らぐ。
見えている未来が悲しいなら、今、別れたほうがいい。
傷がそう深くないうちに。
癒すまでの時間が浅いうちに。
目の前に、きみがいる今。
きみを、もっと、本当に嫌いにならない時に。
嘘を吐き続ければ、それはやがて、自分の中の真実になる。
もう、僕はきみの隣にいることはできない。
その理由を知りたいのに、感情はそこで途切れて私の意識も闇に落ちた。
嘘を吐きたくないと言葉を口にしたのに、胸の奥では嘘を吐き続けるという。
どちらが本当の気持ちで、どちらが嘘なのか。
それとも。
どちらも嘘、ですか。
優しい笑顔やおどけた態度は、いつも真実を隠すためのもので、やがてそれは、彼の中でも頑なにココロを隠す仮面になったのかもしれない。
出口の見えない迷路のように、いつ解放されるかわからない不安に、ただただ、笑って平気だよと呟いているみたいだ。
目が覚めたとき、ベッドにもたれて眠っていたのは、伊吹じゃなかった。
「んぁ……? しおり、起きたのか」
身体を起こした私がうんと頷くと、川島くんも眠そうに顔を上げる。
まだイヤな頭の痛みはわずかに残っているものの、重ダルかったはずの身体は、逆にふわりと浮いたような感じがする。
窓の外は日が落ちてどの位経ったのか、リビングからは照明が差し込み、一体今何時なのか、さっぱり見当がつかない。
布団の上で丸くなっているシロは、ちらりとこっちを見ただけで、またすぐに目を閉じた。
「伊吹も、あんなに冷酷そうに見えて、本当はうぜぇくらいアツイからムカツクんだけど」
暗闇の中でもわかる川島くんの三白眼がこっちを睨む。
起きて早々、そんなことを言われて、訳がわからず視線を返す。
「特にさぁ、アレ、すげー目つき悪くなって何にも言わねぇ時が、マジやばい。有無を言わさず従えモードだもんな」
「何か、あったの……?」
いや、確かに何かあったのはわかってる。
そして川島くんもまた、そんなこと聞くなと言わんばかりに口を開いた。
「それは、こっちの台詞だよ。しおり抱きかかえて帰ってきたかと思ったら、遅くなるって言ったっきり帰って来ねーよ。ケータイも繋がんねぇし、どこ行ったんだか」
「そー……なんだ」
違和感に、左肘の裏側へ指を伸ばすと、白く四角いテープが張られていた。
赤く血の滲んだそれをゆっくりはがすと、もちろんもう血は止まっていて。
おぼろげに病院に連れて行かれたことを思い出した。
脳裏にかすかに浮かぶのは、見慣れない天井と、点滴パックからぽたりと薬が落ちてくる横に、伊吹がいる景色。
そんな途切れ途切れの記憶を、順番に辿りながら繋いでいくと、最後に泣きそうな河合さんの顔が浮かんだ。
「しおり」
不意に呼ばれて顔を上げると、なんだか不満そうに唇を突き出した川島くんがいた。
その唇が、何か言おうとして開いたものの、気まずそうに再び閉じる。
そしてイライラしたように、川島くんは頭をかいた。
「その、ごめんな。悪かったよ」
「え?」
「しおりが、いろいろと無理してるなんて思わなかったからさ。つーか、んな身体壊すまで無理してるなんて、俺、わかんねーよ」
何の事を言ってるんだかわからなくて、私はただ川島くんを見つめた。
「あ、だから、その……ごめん。伊吹に、怒られたんだよ。俺が当番サボりまくってしおりに無理させてるって。だからこんなふうに倒れるんだってさ」
私の様子をちらちら伺いながら、川島くんはもう一度ごめんと私に頭を下げた。
風邪や能力のせいで倒れてしまうのは、決して川島くんのせいじゃないのだと、伊吹だって気付いているだろう。
それでも、良いきっかけになると思って、ちょっと大げさに川島くんに忠告したのかもしれない。
そう思うと、つい笑ってしまいそうになった。
「しおりがまぐれで大学合格したの、すっかり忘れてたよ」
「なっ……」
哀れんだ瞳がこっちを向いて、そして深々と溜息を吐く。
「やっぱさ、無理すると、入学した後が大変なんだよなぁ。俺もレベル下げて入学して良かったよ」
そーゆーことですか。
まぐれはマグレでも、私は合格したし、ちゃんと進級もしたのも事実ですっ。
確かに勉強は思っていたよりも大変だけど、だからって。
「ま、これからは、ちゃんとするから。とりあえず、ハラ減ってないか?」
「う、ん……少し」
「伊吹がおかゆ買ってきてたけど、食うか」
「うん」
よしと、それなりに気合を入れて立ち上がると、少しだけ照れくさそうに微笑んで、川島くんは部屋を出て行った。
川島くんの解釈は癪に障るけど、これでちょっとでも変わってくれるなら、それでもいいかと思ってしまう。
私がいくら言っても聞いてくれなかったのに、伊吹が言うとこうも違うものなのかな。
やっぱりあの表情が、目が怖いよね。
でも、たぶんそれだけじゃなくて、タイミングとか言葉が理路整然としてるのだ。
私はベッドの横に投げ出されたままのバッグから、ケータイを取り出した。
闇の中で眩しいくらいのディスプレイに表示される時刻は、1:36。
同じゼミの友達からのメールはあったけど、伊吹からはメールも着信もない。
どこに、行ったんだろう……?
嫌な胸騒ぎがするのは、気のせい、だと思いたい。
「しおり、こっちで食べる?」
「あ、うん。今行く」
リビングから覗き込む川島くんに返事をして、不自然に軽い身体で立ち上がろうとした時だった。
手の中のケータイが震えて鳴った。
小さな画面に映し出される名前に、私は出るべきか否か、迷ってしまう。
「伊吹?」
着信を確認するように、川島くんの声だけが聞こえる。
「あ、違うの」
表情を変えた川島くんが部屋を覗くのと、私が電話に出たのはほとんど同時だった。
「はい……」
『ごめん。もう、寝てたよね』
優しい声は、沈んだ気持ちを無理に押さえ込もうとしているように聞こえた。
『昨日は、ごめんね。体、大丈夫?』
「なんとか、大丈夫です」
『そっか。良かった。本当に、俺、どうかしてるんだ。だから……都合よすぎるってわかってるんだけど、昨日のことは、全部忘れて』
河合さんは、私の耳元で情けないねと自嘲する。
どう答えていいか、わからなかった。
河合さんの行動も、口から発せられた言葉も信じたくなかったけれど、聞こえてしまったココロの声は、それを裏付けるのに十分で。
でも、その声を思い出せば、研究室で見たふたりの姿と、あの人の言葉も脳裏に浮かぶ。
『しおりちゃん』
不安になる気持ちを揺さぶるような声に、ケータイを持ち直した。
『北原、いる?』
「あ、いえ……今、出掛けてます」
どうして、そんなことを聞くの。
息を飲んだ緊張が、電話の向こうの河合さんに伝わってしまうような気がした。