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campus life 8

 何かの聞き違いか、彼の解釈が間違っていたんだ。

 ぼんやりと立ち尽くしていた私が、微熱の頭で考えた答えはそれだった。

 「みたい」とか「らしい」なんて不確定要素には、高校時代も飽きるほど振り回された。

 そこには本人の思い込みがふんだんに盛り込まれていて、真実は大きく違っていることもしばしば。

 だいたい、伊吹ならもちろん、遥さんの相談にのるだろうし、だからといって、さっきの彼がいやらしい顔で想像するような関係になるわけがない。


「ありえない」


 口ではそう憤ってみるものの、わずかな不安の芽がひとつ開けば、次から次へと疑いの花が咲く。

 研究室の前まで来て、今更、帰ろうかどうしようか迷ってしまう。

 伊吹からメールの返事がこないことが、必要以上に私を不安にさせた。

 信じてないわけじゃない。

 でも。


「………」


 消しきれない疑いから、なるべく音を立てないように、私は研究室のドアを開けた。

 誰もいないかと思わせるほど室内は静かで、窓の外で激しく降り出した 雨の音だけがいやに響く。

 中を見渡し、机の上に置かれた伊吹のバックを見つけると、私はそこへ傘を置いた。

 たぶん、ケータイもこの中だ。

 何かまた、動物たちに異変でも起きて、連絡の取れない状況になったのかもしれない。

 それならそれで仕方ないし、気になることは、今夜それとなく聞いてみればいい。

 適当な噂に惑わされないで、変な思い込みをしないで、本当のことを聞かなくちゃ。

 ここで待とうかどうしようか、一瞬ためらったものの、なんとなく私はここにいちゃいけないような気がして、廊下へ続く扉へと振り返ったときだった。


「わかってるの……」


 部屋の奥から、わずかに荒げた女性の声がした。

 以前、私が倒れた時に、休ませてもらった部屋のほうからだ。

 もうひとり、何を言っているかは聞き取れないものの、低い男性の声が諭すように彼女に言葉を返す。

 遥さんと伊吹なのか、よくわからなかった。

 自分が意識するよりもっと、私自身、混乱している。

 ふたりの姿を確かめようと、少しずつ足を進めるのに、熱のせいか身体が震えた。


「しおりちゃんのことが好きだって、よくわかってるの」


 ドアのないその部屋に、人影が見えて私は足を止める。


「わかってるけど、でも私、あきらめられない……どうしても、好きなの」


 何かの衝撃を受けて影が揺らぎ、薄暗い部屋の中で美しい人の横顔が浮かび上がった。

 濡れた睫毛の先から悲しみの滴が零れ落ちようとする時、私は思わず息を飲んだ。

 彼女がすがりつく先が誰なのか気付くこともなく、ただ、その姿に魅せられて。


「北原くん」


 余計な装飾などされていない唇が、その名前を呼んではじめて、私は彼女の視線の先を見た。

 胸元で哀願する彼女の瞳を受け止める、感情の読めない顔。

 とたんに踵を返して逃げ出そうとした私は、手に持っていた濡れた傘を落としてしまった。

 瞬間、背後から熱波のような感情のうねりが押し寄せる。

 一体どんな顔をして振り返ればいいのかわからずに、私は傘を拾うのも忘れて研究室を飛び出した。


 ……どうしても、好きなの。北原くん。


 彼女の声がリフレインするたびに、頭の中で警告が鳴り響くように痛みが走る。

 気付けば私は雨の中、彼女の声を、追いかけてくる感情を振り払うようにがむしゃらに逃げていた。

 吐く息が白く、熱い。

 それを取り戻そうと冷たい空気を吸い込むと、温度差に耐え切れない喉が拒絶して、強引に吐き出そうとする。

 咳き込みながら、私は大きなハルニレの木の下にしゃがみ、膝をついた。

 苦しくて胸元を握りしめ、大きく息を吸おうとしても、吐き出すばかりで。

 このままここに留まっていれば、また、誰か他人の感情が覆いかぶさってくるような気がして怖かった。


「しおりちゃん?」


 嘘みたいなタイミングの良さに、その声の主を確認しようと顔を上げた。

 冗談みたいで、笑いそうになる。


「どうしたんだよ、大丈夫か」


 河合さんは傘を差したまま、血相を変えて私の前にしゃがみ、その手が頬に触れる。

 指先が私の熱を異常だと判断したのか、河合さんがあたりを見渡した。


「北原は?」


 どう、言えばいいんだろう。

 遥さんが伊吹に告白してるから、私はいてもたってもいられなくて研究室を飛び出したのだと、素直に言ってもいいですか。

 前髪から滴る雨水が頬を幾筋も伝い、顎から落ちる。

 冷たい風が濡れた身体をさらって、全身ががたがた震えだした。

 視界がぼやけるのは、熱のせいなのか、雨のせいか、それとも。

 このまま瞳を閉じてしまえば、身体が動くのをやめてしまいそうな気がした。

 その身体を不意に抱きしめられ、私は咄嗟に身体を引き離そうと河合さんのシャツを掴んだ。


「俺、最低だよ」

「……河合さん、離し、て」


 抵抗すれば、その分強く抱きしめられる。

 どうしてこんなことになっているのか、研究室で見た景色と、今のこの状況と、全くわけがわからない。


「ごめん。こんなことしたら、俺のこと、嫌いになるよね。でも、もう、嘘つきたくないんだ」


 身体を抱きしめる力と同じように、強い感情が、河合さんから一気に押し寄せてくる。

 扉のおまじないの方法なんて、もう忘れてしまった。

 ただでさえ熱に侵されてる頭の中は、流れてくるそれを無防備に受け入れるしかない。


「しおりちゃんのことが、好きなんだよ」


 言葉と同時に、私の脳内を埋め尽くす、淡く甘い感情。


「北原に敵わないことはわかってる。だから、こんなふうに気持ちを打ち明けるつもりもなかった。でも……」

『……ハルカ』


 声と重なり、聞こえたココロの声。

 愛おしい人を呼ぶ、切ない声。


『彼女ヲ好キニナレバ、ハルカヲ忘レラレル。忘レナキャイケナイ。忘レル。忘レロ。ハルカノ為二、ハルカノ未来ノ為二』

「俺は……」


 河合さんのふたつの声と、渦巻く感情と、そして私自身の思考がぐちゃぐちゃに絡まって解けない。

 視界が揺らぎ、眩暈を覚えて瞳を閉じた。

 雨音が遠退いて、あらゆる感覚が奪われていく。

 だから私は、河合さんが腕を緩めて無抵抗な私にキスしたのも、それを私を追いかけてきた伊吹が見てしまったのも、何もわからなかった。


「しおりは、俺の彼女です。たとえ河合さんでも、もう、許せません」


 決して穏やかではない、伊吹の低い声がした。



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