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campus life 4

 強く儚い心は、突きつけられた現実に対処できず、脆く崩れた。

 でも、それが事実だと認識できずに、どこか冗談のようで、悲しいはずなのに、泣くに泣けない。

 彷徨いながら納得できる答えを探そうとしていたはずなのに、前向きな未来じゃなく、その事実を否定するような答えばかり求めているのだと気がついた。

 だから、こんなにも苦しいのに、切ないのに、憎んでいるのに。

 涙が、出ない。



 闇の中で弾き出される言葉の意味を、私は理解できなかった。

 その意識を私に与えた人が、何を求めていて、どうしてそんな気持ちになるのか。

 映し出される景色の中で、彼女の探しているひとは、ただ俯いたまま何かを考えて、口を開こうとする場面で絵が消える。



『そんなの、嘘でしょう?

 嘘だって、言って。

 じゃなきゃ、私は、大好きなもうひとりのひとを、憎まなきゃいけなくなるのに。

 あなたは、それに気付いてないでしょう』



「しおり……」


 愛しいひとに名前を呼ばれることを、どれだけ幸せなことか、私は知っている。

 もし、これが無くなってしまったら、私もあの人のように、わけもわからず泣くこともできなくなるんだろうか。

 ぼんやりと意識が戻り始めると、自分がひどく泣きじゃくっていることに気がついた。

 浸食された感情に泣かされるのは初めてじゃない。

 この入り込んできた『意識』の気が済むまで泣けば、やがて波が引いていくように穏やかに治まっていく。

 それでもまだ感情が覆いかぶさったままの今は、私の心まで共鳴して、絶望的なまでに悲しい思いが胸を絞める。


「大丈夫か?」


 どんなに北原が優しく手を伸ばしたとしても、今の私は彼に触れられてしまいそうになると、思わずきつく瞳を閉じてしまう。

 その異変にすぐ気付いたのか、手は触れることなく、代わりに少し緊張した声がした。


「また、なのか?」


 私は咽び泣きながらも、彼の瞳を見ながら頷いた。

 でも、大丈夫、そう続けたくても、言葉が声にならない。

 それからしばらくして落ち着き始めた感情に、ゆっくり深く呼吸をしながら私は薄暗い室内を見渡した。

 無機質な白い天井には、重ねた年月のせいか黄色いシミが広がっていて、壁一面に並べられた書籍は、川島くんの部屋の本棚とはまるで正反対なまでに乱雑に、たくさんの本が重ねられている。

 私が横になっているのはベッドじゃなく、背の低い私でも足がはみ出てしまうような古いソファ。

 落ち着こうと大きく息を吸うと、喉の奥がまたひっくり返る。

 おそらくこのソファと対になった応接セットであろうテーブルに座り、私を見下ろす北原は、ただじっと黙って私が落ち着くのを待っていた。


「きた……はら」

「ん?」


 涙を拭いて、私はその指をそっと北原に伸ばす。


「触って」


 擦れた声でそう言うと、まるで今の言葉を確認するように北原の瞳が大きく開いた。


「いいのか……?」

「わかんない……でも」


 試してみなきゃ。

 その相手は、ずっと気持ちの知れたひとがいい。

 北原なら、尚更。

 いや、あなたじゃなきゃ、だめなの。

 北原はわずかに躊躇いながら、私の指先をすくうように優しく握りしめた。

 じわり、伝わるのは彼の体温と肌の感触。

 それ以外、何も伝わらない。


「平気?」

「うん」


 私の返事に思いきり息を吐くと、横になったままの私に覆いかぶさるように抱きしめてくれる。

 沈黙の抱擁は、その強さと体温だけで、言葉なんて必要ないほどの想いが伝わってくる。

 心の声が聞こえなくても、私には、ちゃんと北原の気持ちが聞こえる。


「心配した」

「うん……ごめん」


 北原に支えられながら身体を起こすと、開かれた扉の向こうから遥さんが顔を見せた。


「起きた? 大丈夫?」


 一瞬、遥さんの視線に戸惑ったものの、あの時のような衝撃が伝わることはない。

 息を飲んで笑顔を作ろうとしたけど、たぶん、ちぐはぐな表情になってしまったと思う。

 遥さんは私のそばまでくると、床に膝をついて私の手を握った。


「時々、発作が起きるんだって北原くんから聞いたわ。でも、びっくりしちゃった。本当に大丈夫なの?」


 触れられても、北原にそうされたように、遥さんの手からは冷たい肌の感触しか伝わってこない。

 私は深呼吸するように大きく息を吐きながら、うんと頷いた。


「そう。それなら、あとは北原くんに任せて、私は帰るね」


 一度、私の手をぎゅっと握って、遥さんは私たちに背を向けた。

 いつもの微笑がひどく悲しそうな気がしたのは、あのひとの心の中を、わずかな感情を知ってしまったからだろうか。

 そう思うと、治まったはずの感情がフィードバックして、波紋が広がるように胸の中を染めていく。

 何か声をかけるべきなのか……結局迷っているうちに、ドアの閉まる音がした。


「北原」

「ん?」

「遥さん、なんだか少し元気なかったよね」

「……何か、『聞こえた』のか?」


 返事をする代わりに、私は北原の顔を見上げた。


「あの人も俺と同じで、感情があまり外に出ないタイプだからな。単純に、しおりのことを心配してるだけかもしれないけど、澤田さんのあんな顔、今まで見たことがなかったな」

「うん」


 頭に激しい痛みが起きる前、自分が言った台詞を思い出して、私は唇を噛んだ。

 冗談でも、あんなこと、言ってはいけなかったのかもしれない。


「北原、遥さんから河合さんのこと、何か聞いてない?」

「別に、何も」

「そっか……」


 もしかしたら。

 ほんの一瞬の感情だけから判断すれば、ふたりの間で何かが起きているのかもしれない。


「よく、わからないけど。遥さんの、すごく悲しい感情が流れ込んできて。つらくて悲しくて仕方ないのに、泣けないって」


 遥さんの意識の奥に浮かび上がったのは、たぶん河合さんの口元だ。

 表情はわからなかったけど、ためらった後に決して欲しくない言葉が、河合さんの口から語られたのだろうか。

 唇が開いたところで、画面が途切れた。


「もし、河合さんと澤田さんの間に何かあったとしても、俺たちが出たところでどうにかなる話じゃないと思うよ」


 北原の言葉に、私は口を噤んだ。


「あの人たちは、昔の俺たちみたいに子供じゃない。口を挟んで結果が変わったとして、その未来を俺たちが保障するわけにもいかない。できることがあるとしたら、今までどおりに変わらず接することじゃなか?」


 まるでふたりの悲しい結末を肯定するような北原を、私は思わず睨みつけた。


「そんなの、まだわからないわよ」

「そうだな。あくまでしおりが感じたモノを聞いた、俺の推測だ」


 心が沈むような推測なんて、いらない。

 今までの関係が崩れてしまうことなんて、考えたくない。


「しおり、帰ろう」


 私の手をとって、北原が立ち上がった。

 高校の時には考えられなかった、優しい微笑みが当たり前みたいになってきたけれど。

 こんなふうに愛おしいものが少しずつ増えていく。

 ずっと前から、大切なものを失うことや、裏切られることの悲しみやつらさを知っているつもりだった。

 でも、大切な誰かを失ってしまう現実を、本当の意味で、私はまだ何も知らないのかもしれない。



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