campus life 12
「……う」
気持ち悪い。
「……あ……」
頭痛い。
目も、喉も、全身が痛い。
カーテンの向こうが明るくなって、聞こえてくる車の音が、人々の一日の生活が始まった時間であることを教えてくれる。
昨日、あんなふうに雨の中を走り回って、確か伊吹が病院に連れて行ってくれて……だけど、点滴だけじゃ、風邪は治らないらしい。
むしろ、悪化してる。
吐きそうで身体を起こそうと向きを変えると、頭を殴られるような痛みに襲われる。
「伊吹……」
思いがけずすぐそばにある寝顔に、私は驚いて声を上げた。
ここは私の部屋で、私のベッドで。
小さなシングルベッドにパジャマ姿の私と、シャツにジーンズのままの伊吹がいた。
いっぺんに眠気など吹っ飛んだものの、ガンガンと痛む頭は上手く働かず、どうしてこんな状況になっているのかわからない。
そう、夜中に目が覚めたら川島くんがいて、河合さんから電話がきたのだ。
伊吹が、遥さんと一緒にいる、と。
でも、今はここに、私の隣にいる。
いつの間に帰ってきたのだろう。そして、どうして私のベッドで一緒に眠ってるんだろう。
どうして。
どうして私は、こんなにも、切ないんだろう。
私の昨夜の気持ちを知らないでいるような、安らかな寝顔が悔しくて伊吹に背を向ける。
「しお、り……起きたのか?」
背後の身体が動くとベッドの軋む音がした。
顔を覗きこまれるのだと思って、私は身体を硬くして毛布を被る。
その隙間を縫って侵入してきた指先が、温かい指の腹とその裏で、熱を確かめるように首に触れた。
「具合、どう?」
「……サイアク」
黙っていようとしたのに、抑えきれずに感情をそのまま言葉にした。
いや、感情だけじゃなく、実際吐き気もするし、昨日よりずっと頭が痛い。
「じゃあ、今日はふたりでずっとこうしてよう」
私はいいけど、伊吹は授業どうするのよ。今でも変わらず成績優秀な優等生のくせに。
どんなに甘えたい朝だって、今まで一度もそんなこと言ってくれたことなかったのに。
後ろめたい、から?
マイナス思考の自分が、そんな言葉を思いついてしまう。
私の気持ちを知ってか知らずか、伊吹の腕が私の腰に伸びて抱きしめた。
背中にぴったりとくっつくいて、そこから彼の体温が伝わってくるのに、頑なになってしまった私の感情は溶けそうにない。
何も理由を話さずに、こんなことするなんて、ずるい。
許したくないのに、許してしまいそうで、悔しくて涙が出た。
「しおり」
伊吹に悟られないように涙を拭いたつもりだったのに、顔を隠した毛布を引っ張られ、それを握る手に力を込める。
「泣いたら、もっと頭痛くなるぞ」
そんなふうに全てを見透かすようなことを言うなら、どうして泣いてるかもわかってるんでしょう?
「しおり、顔、見せて」
イヤだ。
……なんて。
甘えてずるいのは、私のほうかもしれない。
でも、今更簡単に顔を見せることができなくて。
「日本酒は、カロリーが高いって知ってるか?」
突然そんなことを聞かれ、思わず力が緩んだところで、伊吹が毛布を引き剥がした。
咄嗟に毛布を掴んだものの、間に合わなくて顔を曝け出された私は、伊吹とばっちり目が合ってから、慌ててシーツに顔を埋めた。
「浮腫んで酷い顔だな。熱も下がってるし、気分が悪いのは、夜中の酒のせいだろう」
のろのろ回転の脳内が、その台詞で一気にフル稼働し、血の気が引いていく。
鐘が鳴り響くように痛みが治まらない頭も、こみ上げるような気分の悪さも、もしかして。
「どうせ覚えてないだろうから」
「あ、私、また……何か、しちゃったの?」
伊吹の言葉を遮る形で聞くと、自分の声すら反響して頭が痛い。
背けていたはずの、浮腫んで酷いという顔を、気にせず伊吹のほうへ向ける。
いつもの非常なまでの冷酷さはどこかに消え失せ、疲れて眠そうな瞳が私を捉えた。
「どれだけ飲んだか知らないし、何かしたのかどうかも川島から聞いてないけど、俺が帰ってきたときには、川島の膝枕で眠ってたよ」
「えっ!?」
「川島に怒られた。こんな状況でしおりの面倒見させるなって」
思わず伊吹から視線を逸らして自分の失態を想像してみたものの、伊吹の台詞にさっきまでの感情が引き戻される。
頬にへばりついた髪を静かに払い、代わりに伊吹の手のひらが触れた。
「今、少し話しても平気?」
私は黙ったまま、戸惑いながら伊吹を見た。
「昨日は、澤田さんとちゃんと話をしてきたよ。そのあと、河合さんとも」
そこから先を聞くのが怖い気がした。
伊吹が私の隣にいることは事実で、おそらくそれが結論なのだとわかっているのに。
弱気な私が昨日の研究室でのことを思い出させて、不安を煽った。
「河合さんの地元、仙台だって聞いたことあるだろ。こっちで就職しようか、それとも帰ろうか悩んだそうだ。結局親の希望もあって、帰ることを決めた。当然あと三年学生でいる澤田さんとは遠距離になるし、お互いの将来を考えて別れることを河合さんひとりで、澤田さんの気持ちも聞かずに、一方的に告げたらしい」
「そんな……」
「もちろん、理由はそれだけじゃなくて」
……しおりちゃんのことを、好きになった。
そう言って真っ直ぐ私を見つめる伊吹の唇が、ぴくりと動く。
私は目を伏せて、気を失う前に河合さんに抱きしめられたことを思い出した。
あのあとに聞こえたのは、間違いなく伊吹の声で。
私の本意ではなかったにしろ、伊吹も同じような衝撃を受けたのかもしれない。
「俺の他にも、しおりのことを好きになるなんて、奇特な男もいるんだな」
「なっ……」
どーして、そういう発想になるわけ!?
強く言い返そうとしたところで、二日酔いの頭がズキンと大きく痛んで歯止めをかける。
「ましてや、あの澤田さんを越えるとは、ね」
その言い方に、抑えていた不安と共に、伊吹を責めたい感情が一気に溢れた。
「伊吹だって、あの時、遥さんと……抱き合ってたじゃない」
正確には、遥さんが伊吹に抱きついたのだけど。
勢いあまって事実を歪めて、大袈裟に言ってしまった。
それに、河合さんは本当に心から私のことを好きなわけじゃない。
すぐそばにある顔を睨みつけると、伊吹は少し嬉しそうに笑った。
「残念ながら、しおりが考えてるような話じゃない。やっぱり、勘違いして出て行ったんだな」
「か、勘違い?」
「そう。勘違い」
「な……何よ、それ」
「知りたい?」
「……っ、別にっ!」
「あ、そう」
「『あ、そう』って……!?」
「だって、別に知りたくないんだろ」
いつものペースでからかってるつもりなんだろう。
私だって、そんなのわかってる。
わかってるけど。
唇を噛んでぎゅっと目を閉じると、こらえきれず涙が瞼を濡らした。
「もう、いい」
今は、あんなことがあった後は、そんなふうにふざけてほしくない。
私、そんなに強くないし、本当は自信だってない。
いつも隣にいてくれるのに、それでもふと全てが不確かなのだと不安になる時がある。
こんな時だから、ちゃんと、話してほしいのに。
「ごめん。けど、これは鈍感すぎるしおりへの、ささやかな復讐だよ」
その意味を尋ねようとしたのに、強く抱きしめられて言葉を飲み込んだ。